※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2026年05月03日

「準ずる教育」と「合わせた指導」の定義と異同



 私は、特に養護学校に赴任して以後、「眼の前のお子さんを見て何をするか」を考えるほうで、学習指導要領?文部科学省通知?それなんやねん、という姿勢でした。

 でも、自分でやりたい授業を実現するためには、周囲と話し合うために、またえらい人(管理職や教育委員会や文部科学省の人たち)と話し合うためには、そういうのもすごく大切だと思うようになりました。

 とはいっても、自分の興味関心のある部分だけで、私の能力ではとてもじゃないけど、「全体」を知ってるわけじゃないですけど・・・

 で、ごくええ加減な解釈で言葉を使っていることも多いです。

 「準ずる教育」と「合わせた授業」もまったくもってええ加減にしか使っていなかった単語でした。

 で、 Gemini に尋ねてみました。

 まずプロンプト。

「準ずる教育」と「合わせた授業」の正式名称と、2つの異同。その法的根拠や文部科学省通知について教えてください。

 回答は
 ( )内は私のつぶやきもあり。

1. 正式名称と定義

準ずる教育(各教科の目標・内容を「準ずる」教育)

正式名称:
特別支援学校(小学部・中学部・高等部)学習指導要領における「小・中・高等学校の学習指導要領の内容に準ずる教育」

内容:
障害の状態が比較的軽く、小・中・高等学校で教える各教科の内容をそのまま、あるいは一部配慮して指導できる場合に行われます。例えば、視覚障害や聴覚障害の特別支援学校で、一般的な小学校と同じ算数や国語の教科書を使って進める授業がこれにあたります。

合わせた教育(各教科等を「合わせた」指導)

正式名称:
「各教科、道徳、外国語活動、特別活動及び自立活動の全部又は一部を合わせて行う指導」

内容:
知的障害を併せ持つ場合など、教科ごとの枠組みで教えるよりも、生活上の課題に関連付けて総合的に教える方が効果的な場合に行われる形態です。「生活単元学習」「日常生活の指導」「作業学習」などが代表的です。


2. 2つの異同(違いと共通点)

異なる点

比較項目準ずる教育合わせた教育
主な対象視覚・聴覚・肢体不自由・病弱(知的障害を含まない場合)知的障害のある児童生徒、または重複障害学級の児童生徒
教育課程の編成小・中・高の学習指導要領をベースにする児童生徒の生活上の課題や発達段階をベースにする
教科の区別各教科(国語、算数など)の境界が明確教科の枠を超えて統合されている(「生活」として実施など)
教科書文部科学省検定済教科書(一般の教科書)著作教科書(星本など)や、実態に合わせた教材

(なるほど。知的障害がある場合はすべて「合わせた教育」になるのか。「準ずる教育」では(知的障害を含まない場合)と書かれているのだから。最近、「情緒障害・自閉症学級」にはまったく知的障害(この場合の知的障害は、要するに「もの覚えの悪さ」くらいの意味しかないのじゃないかな)の無い自閉スペクトラム症のお子さんが入ってくる場合があることは聞いています。でもまだまだ例は少ないことと思います。
 特別支援学校にそんなお子さん入ってくるかな?また視覚・聴覚・肢体不自由・病弱などの障害でも各教科の授業をするにしても、様々な AAC 手段が必要になることでしょう。単純に一般の教科書が使えるわけがない・・・(例えば視力0 のお子さんに、あるいは腕・手指の動かないお子さんの前に紙の教科書を置いて「さあ◯◯ページを開いて」とはやらんやろ、という話。もちろん既に様々な手立てが開発されていることと思います。それでもフィッティングに時間はかかるだろうし、そんな簡単にはいかないはず。
 しかし、まじな話、「準ずる教育」って特別支援学級で特別支援学校の学習指導要領(自立活動を含む)根拠、くらいにしか思ってなかった。そして「準ずる教育」も「合わせた指導」もほとんど同じ意味だと思って使ってた(汗))


共通点
◯個別の指導計画に基づき、実態に応じた指導を行う点
◯児童生徒の可能性を最大限に伸ばすことを目的とする点


3. 法的根拠と文部科学省通知

これらの教育課程の編成については、主に学校教育法施行規則と学習指導要領に定められています。

法的根拠

学校教育法施行規則 第126条(小学部)、第135条(中学部)など:

特別支援学校の教育課程について、「特別の事情があるときは、文部科学大臣が別に定めるところにより、各教科、道徳、外国語活動、特別活動及び自立活動の全部又は一部を合わせて授業を行うことができる」と明記されており、これが「合わせた指導」の直接的な根拠です。

文部科学省通知・学習指導要領


ここで、障害の種類や程度に応じて「準ずる教育」を行うことや、知的障害者である児童生徒に対する「合わせた指導」の具体的な編成方針が示されています。

文科省通知「特別支援学校等における教育課程の編成・実施について」:

各学校が設置者の指針に基づき、児童生徒一人ひとりの「個別の教育支援計画」や「個別の指導計画」を反映させて教育課程を組むよう、具体的な運用の留意事項が通知されています。

まとめ

「準ずる」は、学ぶ「内容」の基準を一般の学校に合わせること。
「合わせた」は、学ぶ「形態」を教科の枠を超えて統合すること。
特に知的障害教育においては、後者の「合わせた指導(生単など)」が教育活動の中核を担うことになります。


第百二十六条

特別支援学校の小学部の教育課程は、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭、体育及び外国語の各教科、特別の教科である道徳、外国語活動、総合的な学習の時間、特別活動並びに自立活動によつて編成するものとする。

2 前項の規定にかかわらず、知的障害者である児童を教育する場合は、生活、国語、算数、音楽、図画工作及び体育の各教科、特別の教科である道徳、特別活動並びに自立活動によつて教育課程を編成するものとする。ただし、必要がある場合には、外国語活動を加えて教育課程を編成することができる。

(やはりキーワードとして「自立活動(自立課題学習ではないことに注意。ただし、大きな自立活動のくくり(集合)のほんの一部として自立課題学習は入っており、かつ人によってはたいへん重要になってきます)」が入ってますね。しかし、ここで私は「教科としての自立活動ではなく、全暮らしの背景として自立活動はある、ということを強く主張したいです)

(第百三十五条はいろんな条文にリンクが貼られているのですが、大事な点は「特別支援学校に準用する」特別支援学校の小学部、中学部及び高等部に準用する。」などとある点なのでしょうか)






posted by kingstone at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月01日

「不適切な身体接触」が無くなった例



 今、転居にあたって、とにかく断捨離しなくちゃならないので、印刷してあった資料を見返して捨てられるものは捨てています。

 で、見返していたら、記憶にはあったけれど、いったい誰がどこで発表されたのかわからない、というのが「おお、ここにあったのか」と掘り出されたりします。

 その中ですごく面白いな、と思った抄録や発表。

 2021年の行動分析学会での発表

「不適切な身体接触のある児童の家庭における支援の検討」
高津梓・田中翔大・奥田健次

 これ、もちろん他にもいろいろやっているとは思うのですが、「不適切な身体接触のある児童」に自分の部屋を作ってあげたら「不適切な身体接触」が無くなった、という話。

追記
 2021年の特殊教育学会の抄録にも、同じ事例と思われるものがありました。そこでは「家で帰宅後スケジュールを見せる」介入をしたことが書かれていました。行動分析学会の文になったものの中には書かれていなかったのじゃないかなあ。
 行動分析家の方の書かれたものには、視覚的支援をしたことが、書かれていなかったり、本当にサラッと書かれていたりで、あまり重要視されていないのかなあ、と思うことがよくあります。
 ペアレント・トレーニングでも「環境を整える」として、サラッと出てくるだけのことが多いし・・・
 「当たり前のことすぎて書かない」とかだろうか?まだまだだと思うのですが。


 また 2022年の行動分析学会の発表では

「知的障害児が一定時間一人で過ごすための環境設定」
高津梓・鴨原初穂・奥田健次

では特別支援学校で、パーテーションで区切った個別スペースを作り、それぞれの自立課題や遊べるものを用意する。初回のみ誰の場所かわかるように写真を掲示し、タイマーをかけて、「20分自分の席で過ごしていてください」と教示。

 で、できることの種類を増やしたりしていった。

 これで何が起こったかというと、「不適切な身体接触」が無くなった。

 もちろん、「部屋を作った」「マイスペース(自分の席)を作った」だけではなく、日常で様々なことをされているとは思いますが、非常に興味深い発表でした。

(ネットで読める論文になってたらいいのにな・・・)
posted by kingstone at 18:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年02月25日

愛着について「そだちの凸凹(発達障害)とそだちの不全(こども虐待)」を読む



 学校関係で発達障害のお子さんについての相談(会議)をしていると「愛着の問題では」というような言葉が出された、と最近よく聞かれるようになってきました。

 「親の育て方が悪いから発達障害、あるいはその問題行動が出てきているのではないか」という、ベッテルハイムの「冷蔵庫マザー」が再び出てきたか、というのを感じていました。

 ある対面の相談会の時に「自閉症は愛着の問題では無いか」みたいな質問が出てきて、私はつい「こんなもん、親の育て方が悪い、言うてるようなもんやないですか(そんなわけないやろ)」みたいな回答をしました。

 しかし、耳学問というか、あちこちで聞いている印象だけで、私はまともに「愛着」について勉強していないよなあ、それで答えてはいかんよなあ、と反省しました。

 で、日本語のものをあたってみると、一般的(?)な論文だと杉山登志郎氏のものが参考にされている印象(あくまでも印象)。

 そこで

「そだちの凸凹(発達障害)とそだちの不全(こども虐待)」
杉山登志郎(2011)『日本小児看護学会誌』Vol.20 , 3, 103-107

を読んでみました。現在 2026年ですから、15 年前のものですね。

 これは講演をまとめたもの。

 この中では「愛着障害」という言葉、診断名はまったく出てきません。あくまで「愛着」だけです。

 まず

 最近の知見の中で最も重要と考えられる所見は、多くの発達障害が多因子モデルであることが明らかになったことです。多因子モデルとは、疾病が素因と環境因で生じるというモデルです。ここでいう環境因とはエピジェネティクス(epigenetics)と呼ばれる遺伝情報の読み出し過程において、そのスイッチのオン・オフに環境からの影響を受けるという現象です。

 なるほど。素因を発症(例えば周囲を困らせる行動とかになるかな)に至らしめるスイッチがあると。 
 ただし、私が関わって来た発達障害の方はそれこそ生まれてすぐから「何か違う」という感じを親御さんが持たれていたお子さんが多く(いわゆる折れ線型であっても)、環境因子からのスイッチを押されなくても「すでにそうであった」お子さんばかりといっていいけどな。

 ただ、「育ち」で自閉スペクトラム症や注意欠如多動症と同じような行動を呈するお子さんがいる、というのは杉山先生は昔から言っておられて、私も「そういう場合もあるのか。私は見ていないけど」くらいに思ってました。

 素因を持つものは、発達障害の基盤を形成する認知特性によく似た認知の特徴をもっていますが、その大半は、適応障害は認められません。しかし両者の間には連続性があります。つまり臨床的な観点からは、現在において適応障害を有しないグループにおいても、予防的な関与が必要です。

なるほど。「予防が大事」と。

 筆者は素因レベルを表す言葉を模索する中で、単直に発達凸凹と呼べばよいのではないかと考えました。

 これは最近の「診断名ではなく、本人の困り感に対処しよう」という流れにも当てはまります。

 しかし 30年ほど学校教員として、その後福祉職として学校に関わって来て、ある意味、非常に危険な面もあることを知っています。つまり「教師やスタッフが勉強しなくて良いと思ってしまう」という点ですね。いわゆる「診断名とそこからわかる対応について、不勉強でも構わない」と思ってしまう、というやつです。

 めっちゃこういう言葉がウケる人たちが多いことも知っています。

 もちろん杉山先生は勉強し、実践し、考えをまとめられた果ての言葉ですから重いのですが。

 そしてすごく勉強し、実践した後にはそういう境地に至るのですが、でもそれは少ないと思う。



 そして、適応障害の無いグループは困っていないわけだし、診断も必要無いし

 狭義の発達障害とは、発達凸凹+適応障害のグループになります。

と書かれています。


 で、その後、大事なことが書かれています。

 では、糖尿病における肥満のような、発達凸凹において適応障害をもたらす増悪因子とは一体何でしようか。
 これは実は結論が出ています。それは子ども虐待や、学校でのいじめといった追害体験です。中でも子ども虐待、そこまで行かなくとも子そだて不全があった場合において、発達凸凹が高頻度に、発達障害へと転じてしまうのです。


 「虐待や、学校でのいじめ」ここよく覚えておいてください。

 その後の「3. 愛着の重要さ」のところで

 愛着行動が繰り返される中で、子どもの中に養育者は内在化され、そのイメージの想起のみで、子どもは不安を来さなくなって来ます。

 そして

 愛着を形作る他者(人間とは限りません)の内なる記憶とまなざしによって、われわれは苦境に立ち向かうことが可能になるのです。

 この「人間には限りません」ってところ、めちゃめちゃ大事だと思います。

 愛着形成(kingstone注:愛着システムの構築、みたいな言い方でも良いと思います)を困難にする要因に

第1に子どもの広汎性発達障害の存在、
第2に子どもの多動性行動障害の存在、
第3に母親の広汎性発達障害(凸凹)の存在

 まず私は「第3」のところで「父親はどこ行った」とすぐに思います。これは30年前から変わりません。

 あと、講演という場だからかもしれませんが「書くに耐えない」造語もしておられます。

 そして「第1」とか「第2」とかの要因があれば、「普通に子育て」していれば失敗しやすいのは自明であり、いろいろ学ばないとうまくいかないのは当然です。

 そしてそもそも障害の有無に関係無く「失敗の無い子育て」なんか無いというのが私の持論です。

 ただ、自閉スペクトラム、多動性のスペクトラムが薄いお子さんだと、自らの力で、親を変えてくれる力が強い、それが自閉スペクトラム、多動性のスペクトラムが濃いお子さんだと、自らの力で親を変えてくれる力は弱いよな、そして悪循環に陥りしやすいよな、と思います。

 ここからこの論文を支援の場に生かすには、ということを考えてみます。
 素因を発症に至らしめるスイッチは「虐待や、学校でのいじめ」と書いておられるわけですが、「親御さんが普通(例えば音声言語であれこれ言う)の接し方をしているのが、お子さんにとって虐待体験と感じられる」ということはあり得ます。

 しかし、それを「親の虐待」のように言うのか?
 
 また園や学校の先生の対応も「虐待や、学校でのいじめ」とおなじようにお子さんに体験されている可能性は大きいです。

 そして親御さんは一般人です。教師は教育の専門家です。福祉事業所のスタッフは福祉の専門家です。

 専門家ができることは、「愛着の問題があるのでは?」などと言っている暇に、どうしたらうまくいくかを考え、実例をたくさん作り、親御さんに「こうするとうまくいきましたよ」とお見せし、やり方をお伝えしていくことではないでしょうか。

 また本当に「虐待」が存在するのなら、児童相談所はじめいろいろなところに通報する、という必要があります。私はやりました。(でも、学校内とか事業所内とかのものは、おおごとにならないとなかなか表に出てこないですが)

 なんかやはり杉山先生の意図は別として、学校現場とかでは、自分たちのことは考えず、「冷蔵庫マザー」のような言葉として使われている気がするな・・・

ーーーーーーーーーーー
 愛着障害は DSM-5-TR に

「トラウマおよびストレス関連障害群(Trauma- and Stressor-Related Disorders)」
と分類され

1. 反応性アタッチメント症/反応性愛着障害 (RAD)
英語名:Reactive Attachment Disorder

2. 脱抑制型対人交流症/脱抑制性愛着障害 (DSED)
英語名:Disinhibited Social Engagement Disorder
の2つが定義されている。

ーーーーーーーーーーーーー
内山登紀夫先生の動画です。

「「愛着障害」の誤解」

ーーーーーーーーーーーーー
 私が 2011年にまとめたもの。

 「愛着」どころか「愛」について書いてます。

ーーーーーーーーーーーーー
これは 2001年から 2003年ころの話だな。



posted by kingstone at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年02月11日

伝わるコミュニケーションは説教でも楽しく感じることがあること




 ある放課後等デイサービスにて。

「友達の名を本人のいやがるあだ名で呼ぶ」を複数の児童がやったことがありました。

 本人がすごく嫌がっていました。

「いじめ」ですね。

 そのさい、すぐに私があだ名で呼んだ児童を、別室に連れて行きました。

 一人の子は「いやや!叱られるんいやや!」と叫んでいました。

 しかしその子も連れて行き、全員に静かに(まったく音声言語抜きでは無い)「おはなしメモ」「◯✕メモ」を使って説明しました。

 伝え終わって、プレイルームに戻る時、叫んでいた子がニコニコしながら「またお話、しょうな!」と私に言いました。

 実は「叱る」とはイメージが違いますが、内容は「説教」には違いない。しかしわかるやりとり(コミュニケーション)をするのはそんなにも楽しいことなのですね。

(なお、当然のことながら、「ごめんね」などの指導はいっさいしていません。また「友達の名を本人のいやがるあだ名で呼ぶ」というのは、その後、いっさい無くなりました。


posted by kingstone at 15:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年12月28日

SWPBSにおける「成功事例」の影、そして妥当性・倫理・人権について考えるシンポジウムの事例について その9




【集団支援(SWPBS 第1層)事例】規律と引き換えの代償

事例10:授業開始2分前の「チャイム着席」
(ゆとりの剥奪)

 こういうので、ちゃんと始業時刻に全員着席ができた例をうかがい、「なるほどなあ」と思っていました。

 しかし・・・よく考えてみると最近仕事で

「始業15分前に来るのが常識だろう!」と言うのが理不尽だ、という話に通じるなと。

 私も古い(高齢者)人間なので、始業15分前には着きたいな、と思うし、人と会う時は早目に待ち合わせ場所に着いておきたいな、と思うほうなのだけど(実際、知的障害養護学校時代は1時間ほど前に行って自立課題学習の設定などしていた)。

 しかしよく考えると、いきなり始業時刻にチャイムが鳴り、その時は既に着席している、ってのは結構難易度が高い。

 ずっと時計(時刻)を気にしていないといけないのだから。

 それを解決するために 2分前にチャイムが鳴ると、夢中で遊んでいても気づける利点がある。

 でも、「夢中で遊んでいてもチャイムが鳴ってから2分後には子どもも教師も教室で勉強できる体制になってりゃ OK」にしてもいいのでは、という話でもあるんだな。

 そうなると、「貴重な授業時間が2分短くなるじゃないか」と言われそうだけど。

 これに対しては、「現在の体制としては、これが良き解決法だし、注意したり叱ったりしなくて良くなるし(で、そんなことで時間をつぶさなくて良くなるし)、褒めることができるし、いいのでは」みたいなことになるかな。

 あくまでも「現在の体制では」だけど。

 記事を書いてから思ったのだけど、もし今まで「休み時間」と呼んでいた時間に食い込むなら、少なくともその変化の時、そしてそれ以後の年度始めに

「この 2分は、移動、着席、教科書、ノート、筆箱を出す授業準備時間です」

というふうに宣言する必要はあるんだろうな。

(画像はクリックすると大きくなります)

SWPBSの「成功事例」の影.jpg

posted by kingstone at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする