序文を高橋是清さんご自身が書いており、日付が 1936年1月となっています。
そして、その1月後、
二・二六事件 によって殺されておられる・・・
何か粛然とします。
なぜこの本を読みたいと思ったのか。
1. テレビドラマ『いだてん』で、ショーケンが高橋是清を演じており、その中のセリフで誰かの言葉に対し「それは植民地を相手国に返してから言うことだ」と叱責するシーンがあり、「かっこいいなあ。本当にそんなことを言う人だったのだろうか?」
2. いわゆる世界恐慌に対するルーズベルト大統領の「ニューディール政策」よりも早く公共投資による不況脱出政策を行なった、というのはどう考えて、どうやったのだろうか?
という2点について知りたいな、という興味でした。
まず 1. の点について。
明治26(1893)年に是清翁は日本銀行西武支店長(馬関(下関)支店長)になっている。
そこで九州の金融を支えていた。
朝鮮半島では福沢諭吉などと関係の深い
金玉均(キム・オッキュン)が明治維新を模範とした近代化を目指していた。しかし、閔氏政権妥当のクーデターに失敗し、上海で暗殺される。
1894年 東学党の乱(甲午農民戦争)が起き、朝鮮王朝は清に救援を要請。日本も自国民保護を理由に(当時結んでいた条約に基づいて)朝鮮出兵。
その時のことをこう言っておられます。
| (前略)同時に当時帰朝中の大鳥全権公使は急遽帰任の途につき、六月五日に仁川に上陸直ちに我が陸戦隊に護衛せられて、威風堂々京城に進み、五カ条の改革案を懐ろにして、国王に謁し、その実行を迫った。そしてその諾(き)かれざるや直ちに兵を向けて景福宮に入り、閔氏以下の事大党をことごとく排斥して、大院君を国政総裁に迎え、断固として内政の根本改革を行った。 |
明らかな武力を使った内政干渉をよしとする姿勢ですね。
もちろん時代が違うし、当時の世界の帝国主義の流れの中で仕方がなかった面はあるのかもしれないけれど、「それは植民地を相手国に返してから言うことだ」とは言いそうにないですね・・・
追記
上のように思っていたら、犬養道子氏の回想の中で、子ども時代、たまたま犬養首相・高橋是清大蔵大臣・荒木陸軍大臣が激論している場にまぎれこんでしまい
荒木陸相は興奮した口調で、上海にあって「支那軍の大抵抗に遭っている皇軍」の援助のために、「一大軍隊を送り支那を一挙にこらしめるべきだ」と発言したというのである。道子氏は、「お祖父ちゃまはこの馬鹿に答える気にもならず黙っていた。そのとき高橋(是清)大蔵大臣が、大きな眼をギョロリと剝き大声をあげて陸軍大臣を叱咤した」と書いている。 高橋は、「君はまだ若い......波がひとつ来ただけで大変だ大変だと言う......支那の身になってみろ、満州かッさらわれて.......まずかッさらった満州を返すことが先決だよ。支那問題はここにおられる総理のナワ張りだ」と叱ったそうだ。「陸軍大臣は窮し、蒼白となり、陸軍省に帰って憤激をぶちまけた」とも書き、陸軍内部に「高橋、消すべし」の声があがり、それが昭和十一年の二・二六事件へとつながったというのである。 |
というのを聞いてしまったと。なお、元の記事で私は「ショーケンがこれを言うのを聞きたかった」と書いているから、ショーケンのセリフの中には無かったのかな? DVD を購入(配信でもいいのだけど・・・)して確認しなきゃいけないな・・・
しかし、「満州を返すことが先決」とおっしゃってたのに「朝鮮を返すことが先決」ということは言わなかったし、台湾もだし・・・
う〜〜む。
元記事
また、疑問2 に関しては、1905年までの日露戦争のための外債募集の成功までしか語られておらず、大蔵大臣や首相時のことまでは語られていませんでした。
残念・・・
しかし、自伝(高橋氏が語ったことを上塚司氏がまとめていった)だから、まあ基本的には自慢話にはなるのだろうけど、めっちゃ波乱万丈の人生を送ってはる。
幕末に肴屋の主人が侍女(じじょ)に手をつけた結果生まれ、しかしそこの正妻さんがよく面倒を見てあげ、その後、当時はよくあったのかもしれないけれど、仙台藩士の元に養子になり、一応身分は低いながらも士族となった。
1864年 12歳で、横浜でヘボンさんの妻について英語の修行。
この時、吉原から出火し大火になり(東京の吉原?それとも横浜にもあった?)、ヘボンさんのところで学ぶことができなくなって銀行のボーイをし、実地や人について英語を学んで行く。
しかしそこはならず者もいるようなところ。ネズミを焼いて食べたりしている。
またラシャメンに悪いいたずらをしたりしている。そりゃ評判が悪くなる。
1867年 14歳でアメリカへ。餞別にもらったお金を行きの舟で全部飲んでしまう(14歳で!)。
サンフランシスコで・・・ここで後から分かったが「奴隷」として売られる。(これ、一部、今の日本の技能実習生でも起こっていたのと同じような条件で働いていたのではなかったろうか)
それでも実地で勉強を続けている。
アメリカ滞在中に明治維新が起こり、「賊軍」になってしまう。
日本に帰ってきたけれど、隠れ住んでいた。
しかし森有礼に紹介してくれる人がいて、書生になり、大学南校(東大の前身)で学びに行ったら、いやお前が教えろとトントン拍子。
ところが・・・
1870年(17歳) 友達の借金の支払いをしてやると「お礼だ」とその友達が借金を作るもととなった茶屋遊びに誘う。それが面白くてのめりこみ(17歳!!)お金を使い果たすは、悪評は立つわ、でクビに。
しかし、その茶屋の一番の売れっ子芸者さんが世話をしてくれ、要するにヒモになったみたい。まあ、時間になると茶屋に迎えに行く、という仕事(?そうすることでいやな客に延長されるのを防ぐことができる)はやってはるが・・・
というわけで、何というか周囲から愛される人だったんだろうな。
で、その後も出世したり、ペルー銀山の事業に失敗したり。
なおペルー銀山事業の失敗は自伝では強引に頼まれてしかたなく引き受けたみたい。というか、基本的に周囲から頼まれて仕事をしているというのがすごいな。
なお、知的財産について初めてではないけれど、初期に法律を作るのにも尽力されている。