私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2014年03月21日

サバイバル宗教論 佐藤優著



読書メモ

 2012年に京都の相国寺(臨済宗相国寺派)で行われた
「第15回教化活動委員会研修会」
での4回の連続講演をまとめたものを再編集したもの。
なお、相国寺は佐藤優さんの出身大学同志社の北側に隣接してあります。
キリスト教大学(牧師も育てている)と禅宗のお寺が隣り合ってあるわけです。

 ヤン・フス(1370頃ー1415。ボヘミア。チェコスロバキア)の頃はカトリックに女性の教皇がいたと信じられていた。9世紀、イギリス出身のアグネス(ヨハンナ)。(伝説の域)

 近代科学と魔術と宗教について。

 それから、最初のご質問の政治と宗教に関して言えば、日本人の宗教観は基本的に魔術的です。これは、神道の影響だと思います。ただし、実は魔術というのは近代科学と一緒です。たとえば丑の刻参り。丑の刻にわら人形と五寸釘を持っていく。最近は、通信販売で売っています。のろいのわら人形セットとか。それを持って、手続きに従って毎日同じ時間に行ってお百度を踏んでやれば、必ずのろいが実現する。これは近代科学と同じ考え方です。科学の実験というのは、だれがやっても同じ結果になるわけですから。
 ところが、そうではない出来事があります。それが超越性です。


 なるほどなあ。「手続きに従ってもできないことがある」こっちの考え方が宗教的と思っていたけど、宗教的な考え方でも「手続きに従っていればかなう」というのもあるのか・・・

 しかしまあ人間の努力(手続き)によっても神様のきまぐれで結果はどう転ぶかわからない、という考え方も神道にもありそうだけど。

グロスマン著「人生と運命」(みすず書房)は、「収容所群島」を抜くくらい面白い。

 佐藤さんが研究しているチェコスロバキアのフロマートカのいまわのきわに弟子に言った言葉。

「(私は命令したことは無かったが・・・)今回は命令である。(中略)いかなる困難があろうとも西側に亡命してはならない。同じ事柄を同じ時期に語る場合でも、チェコスロバキアの中で発言するのと西側で発言するのとでは、その意味は全く異なる。私たちは祖国にとどまることによって、すなわち民衆と苦難を共有することにおいてのみ、イエス・キリストの真実をあきらかにすることができるのだ」

ニコライ・フョードロフ(ロシア・19世紀終わり頃)
   本が読めるから図書館のカード係になり、給料は若い学生に
   みんな配ってしまった。彼のもとにトルストイやドスエフスキー
   が教えを請いに来た。また宇宙移住について考え、
   それがツィオルコフスキー(ロケットの父)に影響を与えた。

「『救済』として殺す」はキリスト教にもある。例。ルターのドイツ農民戦争の時の言葉。

ニューギニアの狩猟採集の民が定住しない理由。
   1.排泄物
   2.死体

 なるほど。どちらも「感染症」などの危険もあるし、また2の方はそれ以外のインパクトもある。
 で、佐藤さんは何度も「葬式仏教と揶揄するのは間違っている」ということを述べられているけど、ほんま、平安・鎌倉の頃遁世僧がやっと行き倒れた貧しい人を弔ってくれたんだよね。それってすごく大事なことだったに違いない、と思う。

 アメリカで小さな政府を主張したレーガンやブッシュ(父)の頭には政府が小さくてもコミュニティが助けてくれる、ということがあっただろうけど、実際はコミュニティの力が低下していて思うようにはいかなかった、とのこと。

 確かに、私も小さなキリスト教教会に通っていたことがあるのだけど、コミュニティを作ろうとしてはるな、というのはよくわかったもんな。そういう相互扶助の場が機能しているなら、政府が出張る場面は少なくてすむだろう。

 しかし、宮古島は8000人の人口で生活保護の不正受給などはない、つまり顔の見える範囲だと、相互扶助が機能しやすい、ってことなんだけど、その生活が息苦しいと思う人もいるだろうな。といって都市の無縁社会がいいってわけでもなく・・・(しかしそれが楽だ、と感じる人もいるだろうし・・・うむむ)


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2013年12月18日

完全教祖マニュアル 架神恭介・辰巳一世著



 基本的におちょくり系なんだけど、著者はよく勉強してはる。
 で、高校生や大学生とかの宗教リテラシーのためには最適の本じゃなかろうか・・・
 でも、それすると怒り出す人たくさん出るかな・・・でもこれだけおちょくられても、「それでも私はこれを信仰します」と宣言できて、この本を、目を三角にして攻撃するのではなく、笑って流せるくらいじゃないといけないんじゃないかなあ・・・

「反社会的な教えを作ろう」の中から

 なぜ、新興宗教が反社会的になるかというと、そもそも新興宗教はその社会が抱える問題点に根差して発生するものだからです。なので、どうしても反社会的にならざるを得ませんし、また、そこにこそ宗教の意義があるとも言えます。イエスは徴税人や売春婦と交わりましたが、彼らは当時穢れた職業と考えられていました。今の感覚で言えば職業差別ですが、当時の社会では彼らを差別することこそが、むしろ「正しい」ことだったのです。ですから、彼らのような社会的弱者を救済し、神の祝福を与えるイエスは、どうしても反社会的にならざるをえないわけです。安息日に病人を癒したのも、神殿で商人相手に暴れ回ったのも彼なりの信念によるもので、「安息日に人を助けられないってバカじ。ないの?」「神聖な神殿で商売するってバカじゃないの?」という意味があったのです。これも今の感覚からすれば納得できる話ですが、当時ではやっぱり反社会的だったわけです。

 後半の「神殿で商売しちゃいけない」は現在に生きてるはずの私はそう思わないけど・・・

 でね、私の周囲でも過去、私に対して悪口、貶める言葉として「TEACCHは宗教や」という言葉を使う人がいた。その人達の考えていること(たぶん間違ったことを、頭から信じ込んで、宣伝しまくる、困った存在)は間違ってるとは思う。そのレベルではね。でもほんまのところ自閉症スペクトラムの人たちというマイノリティ(?本当にマイノリティなのだろうか?)について、マジョリティと思っている人たちに理解してもらおう、価値観を変えてもらおう、という意味では、悪口、貶める言葉としてではなく「宗教」の側面もあるのかもしれないなあ、少なくとも「それまで無かった思想」という意味はあるかとも思う。

TEACCHはある意味思想である(祈りもあるかも?)

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2013年11月17日

お寺の掲示板に貼ってあった言葉

 散歩中、お寺・教会などに貼ってある言葉を読むのは好きです。
 散歩の途中にあった慈照寺(浄土真宗)の掲示板(計3つ)にあった言葉。

「悩みがないのが健康ということではない。
 いかに深く悩むか、それが人間の健康である」

 前半はうなずくけど、後半は違うと思うな。
 別に無くても(ってことはたいていの人にはないやろけど)浅くても深くてもいいんやと思う。悩みの軸と健康の軸は相関はしないと思うぞ。

「逆境を生きぬく人は尊い。
 だが順境に酔わない人もまた有り難い」

 これはなかなかいいんじゃ。

「みんなちごうとる中で変わらんもんひとつあるわね。
 それはみんな煩悩具足やということや。
 自力、間にあわんもんや。
 間にあわん自力、間にあわせようとしとる愚かなもんやというこた、
 年寄りも若いもんもひとつでないかね。
 それ知らしてくれるが仏法やろ」

 浄土真宗らしい言葉。
 たぶん信者さんのおばあさんの言葉。


ラベル:浄土真宗
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2013年09月21日

神道はなぜ教えがないのか 島田裕巳著



 題名は「神道はなぜ教えがないのか」ですけど、なぜかについては答えてないような・・・
 でも著者の言うとおり、

「神道には開祖も、宗祖も、教義もない」

はそうだな、と思います。で「ない」宗教で、それに対し仏教やキリスト教やイスラム教には開祖がありぃの、教義がありぃの・・・ってか聖書や仏典(お経)やコーランがある。(と書きましたが、本書では神道とイスラム教は共通性がある、という論が展開されてます)

 確かに「天照大神」は開祖じゃなく祀られる側だしな。で、別に天地を創造したわけでもないし。(しかし伊弉諾と伊弉冉がオノコロジマを作ってはいるけれど)

 で、日本ではかなり昔から神道(??しかし神道と言っていいものかどうかよくわからない、例えば自然の岩陰の元で行われた祭祀などがあったと。神社建築ができてきたのはかなり後年とのこと。日本書紀だか古事記だかに「修理」の記述があるので、そのころにあったかも、だけど、基本的には寺を見て、こういうもんかと作った可能性も)があり、そこに「ある」宗教としての仏教が入ってきたが、「ある」と「ない」でうまく共存できた、と。(「ある」と「ある」同士じゃあ喧嘩になるよな)

 なお、最古の寺は蘇我氏の氏寺で、飛鳥の法興寺とのこと。ただし当時の大伽藍は現存はせず、現在は飛鳥寺となっているが規模は小さい。また現存する最古のものは法隆寺金堂で7世紀後半だとか。

 で、蘇我氏対物部氏の戦いが「新しく入った仏教対古来の信仰」ということで語られるけれど、そうではなかったのではないか、明治の廃仏毀釈までは本格的な戦いのようなものはなかったのではないか、と著者は言います。(なお、中国では徹底的な廃仏毀釈が何度かあったそう。円仁が留学していた時にもおこり、円仁は還俗させらたそう)

 確かに、一見宗教的な戦いと見えるものが、実は「様々な他の利権」をめぐる戦いだ、というのはおおいにありそう。十字軍だってそうだろうし、イラクのスンニ派対シーア派とかいうのだって「実は別の利権について」だ、ということはおおいにありそう。でもそれを「宗教の戦い」にすり替えられちゃうだろうな・・・

 しかしまあ神道は結構なんでもありで、ハワイ大神宮などは、相殿にジョージ・ワシントンとカメハメハ大王を祀っているとか。いやあ、乃木神社とかあるから、「人を祀る」のはありだろうけど、この場合、祀られた相手も怒らないか??

「救済しない宗教」という章もあります。へっ?でも救済をお願いしたり、救済されたりすることもあるよなあ、と思いましたが、確かにあんまり「期待しない」というのはその通りかもしれない。柏手を打ってお賽銭を投げて「お願い」はするけど、まあダメもと、みたいな感じはあるよな。

ラベル:
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2013年08月01日

日本のキリスト教 古屋安雄著



 2003年5月25日に初版。私の読んだのは2004年1月14日の再版分。

 古屋安雄さんの2001年から2003年に書いた文を集めたもの。(書き下ろしもあり)

「なぜ日本においてキリスト教が広がらないのか」(日本の人口の1%。なお、1549年からしばらくで、日本の2〜3%が信徒であったそう)「伝導はどうあるべきか」という問題意識で書かれているものが多い。

 著者があげる大きな問題点として、明治以来のキリスト教が「武士道と結びついたキリスト教」であったという点。内村鑑三しかり、新渡戸稲造しかり。(また今やってる大河ドラマの「八重の桜」に出て来る新島襄だってそうだわな)

 つまり「立派な人の宗教」に偏りすぎてきたのではないか、と。あるいは「知識人のための宗教」(ただし、このあたりプロテスタントの話。カトリックについては、明治になってもなかなか入ってこなかった(やはり日本側に植民地化の先兵という意識がまだ強かったそう)が、入ってきてからはカトリックは「上流階級」と「下層階級」に主眼を置いたとか)

 その一例が「平信徒」という言葉。牧師を「えらい人」「士族」とし、そうでない人を「平民」とするみたいなもんか。で、伝道をえらい人に任す形になっていったと。

 それに対し、韓国では「民衆の宗教」として広がり、またそこから「民衆の神学」というのが出てきてるそう。(またその他、日本と韓国との比較においては、「日本では日本のナショナリズムと日本のキリスト教が対立する」形になったのに対し、特に戦前「韓国では日本のナショナリズムと韓国のキリスト教が対立(なので、韓国のナショナリズムとは一致)」とかいう指摘が、なるほど、でした)

 なお賀川豊彦についても2文が割かれている。これによると「少なくとも50年前(つまり1950年頃か)のアメリカではもっとも有名な日本人であった」とのこと。

 当時「最悪の貧民窟」と呼ばれていた町で幟をたてて伝道し「キチガイ」と呼ばれてたわけだけど・・・

 で、伝道者としても、労働運動家としても、また生協活動家としても、有名な方だけど、今は知る人も少ないのかな・・・

宗教・布教・伝道あるいは貶めること


  
posted by kingstone at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする