私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2014年12月07日

高野聖について

 Togetterで

高野聖について

をまとめました。

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2014年10月31日

大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院



大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院

 私、「大いなる沈黙」と間違って覚えてました。
「へ」がいるんですね。

 元町にある、元町映画館という小さな映画館でやってました。
 17:40からの上映で、私は16:30くらいに着いて、先にチケットを購入してました。
 で、軽く御飯を食べ、ぎりぎりに行くと、既にほぼ満席・・・
 最後の2席が空いてて、私の買ったチケットに整理券がついてて、「座っていいですよ」とのことでなんとか座れました。で、ほぼ3時間の長丁場の上映ですが、みなさんもう真剣に見てる、って感じでしたね・・・

 山の中の修道院。
 ケルンの聖ブルーノ(1030〜1101)が作ったカルトジオ修道会は最も戒律が厳しいことで知られているそう。
 シャルトルーズはフランスのグルノーブルとシャンベリの間、フランスアルプス山脈の中にある。
 裏にある山がまさに岩峰で、アイガー北壁を小さくしたような形のもありました。

 平日の暮らしの中では基本的に沈黙。会話はしない。(ただし、仕事に必要な会話とか、儀式とかでは対話してた。また聖歌も歌うし。)

 日曜日と、特別な日は外に出て、また会話をすることも進められている。
 でも、山の中で、冬は雪が多いし、閉じこめられるのでは、と思ったら、雪のある時に、さらに山を登って行って、斜面をお尻で滑ったり、立って靴のみで滑ったり(グリセード)して遊んでました。一人だけスノーシュー(輪カンジキ)を担いでた人がいたな(履いてたかどうかはよくわからない)。

 また日曜日と特別な日はみんな揃って食事をする。
 つまり、その他の日は、それぞれ思い思いのところで食事をする。

 入山(?)した人は、出ていくのはいつでも自由。また、修道院長はその人が合わないと感じれば、いつでもやめさせることができる。それは入山式(?名前が違うだろうけど・・・)の時に宣言されてる。

 日本で言えば、永平寺みたいなもんか、とも思うけど、永平寺の場合は全員が出家者(僧侶)だけど、修道院の場合は普通の修道士は司祭じゃないというか、神父さんじゃないというか、そこが違うよな。でもって、戒律も禅房の方が厳しいかも・・・しかし「厳しい」の質が違うのか。永平寺とかだと「苛烈」みたいな感じで、シャルトルーズの場合は淡々と継続する「厳しさ」なのかもしれない。

 で、大きな修道院をなんか20人余りで運営してる。(たまたまなのかな?集まった時の人数を数えてみましたが、25人よりは少なかった。他にももっといるんだろうか?)

 でね・・・監督が映画撮影の許可を申請して、許可が出たのが16年後、というのが宣伝文句にもなり、パンフの中でも感心されてるのだけど・・・

 映画の中で、いろんな仕事をしている修道士さんが出てきます。
 で、事務処理をしてる修道士さんもいました。
 広い机がお世辞にも整理された状態とは言えない書類が積み上がっています。(むしろ散乱している、と言った方が適切)その山の向こうに、IBMのロゴがついたノートパソコン、ThinkPadの蓋(液晶の裏面)が少しだけ見えていました。一応パソコンを使ってデータを入れてるのだけど、まあゆっくり、ゆっくり・・・(確かに時間の流れは違う・・・)
 で、16年後というのは、それだけ慎重に考えた、ということではなく、単に事務処理ができなかったからなのではないかと・・・(しかし、それはそれで「すごい」ことか・・・よく申請の手紙が無くならなかったものだ・・・)

 いろんな意味で迫力のある映画でした。
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2014年08月16日

平和の祈り

「平和の祈り」はアッシジの聖フランシスコが唱えたとされているけれど、それは完璧に間違いみたいですね。Wikipediaでは初出は20世紀のフランスであるみたい。でも、いかにも聖フランシスコが言いそうだし、内容もなるほど、と思われたので、聖フランシスコが言ったことにされた、と。

 でも古典的な文にはよくあることですよね。
 で、流布したのは中身が良かったからなわけだし。
 また広く流布している間にいろいろな文言の変化したバージョンがあるそう。

 その中のひとつ。
 こういうのだそうです。
 (一部、kingstoneがインデントと改行を入れた)

「平和の祈り」

  主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
     憎しみのある所に、愛を置かせてください。
     侮辱のある所に、許しを置かせてください。
     分裂のある所に、和合を置かせてください。
     誤りのある所に、真実を置かせてください。
     疑いのある所に、信仰を置かせてください。
     絶望のある所に、希望を置かせてください。
     闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
     悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
  主よ、慰められるよりも慰め、
     理解されるより理解し、
     愛されるよりも愛することを求めさせてください。
  なぜならば、与えることで人は受け取り、
     己を捨てることで人は見出し、
     許すことで人は許され、
     死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。

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2014年08月13日

「教えること、裏切られること」 山折哲雄著



「教えること、裏切られること」

 この題名そのものが、ちょっとしんどいか。
 「裏切られる」というのは師が弟子に対し「何かを期待」するから「裏切られる」という言い方になるのだけど、弟子のほうは「そういう期待に応えます」とか言ってたって例は少ないのじゃないかな。

 で、そういう場合なら、勝手に「期待」する師の方がダメじゃん、と思ってしまう。
 師弟関係ってそんなもんじゃないと思うのだけど。

山折氏の「師以前の師」
   服部之総(はっとりしそう)「親鸞ノート」
                「蓮如」
                「黒船前後」
   市川白弦(いちかわはくげん)「仏教における戦争体験」
                 一休に関する研究

師弟の人間関係の3つのモデル

1.老子 そもそも弟子がいない
2.孔子 いろいろ教え、就職斡旋活動もする
3.禅  祖と会えば祖を殺し、師と会えば師を殺す

 とか言いながら、禅も現実世界では殺さないよなあ・・・一休さんも謙翁宗為(けんおうそうい)は看取っているし、まあ華叟宗曇(かそうそうどん)が印可状を与えようとした時は辞退したからちょっとそれっぽい。


ここに出てきた師弟関係

   藤井日達と弟子たち

   内村鑑三と斉藤宗次郎
      斉藤宗次郎は宮沢賢治とも交流があった。花巻小学校の訓導
      となるが、キリスト教に入信したので馘になる(!?)。そ
      の後、内村鑑三の勧めで新聞屋さんを始め、配りながらアメ
      を子どもたちに配り「ヤソ ハゲアタマ ヤソ ハリツケ」
      とはやしたてられていたが、やがて「名物買うなら花巻おこし
      新聞とるなら斉藤先生」といわれるようになる。

   夏目漱石と和辻哲郎

   柳田国男と折口信夫
      柳田は折口の「翁」については何も触れず、また折口は柳田
      の「童子」については何も触れなかった。って、ちょっと怖
      いなあ・・・

   柳宗悦と棟方志功
      しかし、この場合、棟方志功を売り出すのに柳宗悦が一役買
      った、ということで、別に「師」って感じじゃないんじゃな
      いか??

   正岡子規と高浜虚子

   法然と親鸞(そして他の弟子たち「一念義」「多年義」「西山」etc.)

   親鸞と唯円

   麻原彰晃と弟子たち

   明全と道元

   如浄と道元

   道元と永平寺の僧
      「正法眼蔵」は道元の思想というか説法みたいなもの
      「日本国越前永平寺知事清規」は生活や組織づくりのマニュアル
      後年になるほど、前者が少なく後者をたくさん書くようになる。

   キリストとペテロ(3度裏切る。12使徒として分割相続)
   キリストとユダ(1度裏切る。全面的に相続しようとした(?))

   シャカとアーナンダー(3度ボケル。10大弟子として分割相続)
      シャカ入滅の時、アーナンダーに「もっと生きた方がいいかなあ」
      みたいな問いをしたけど、アーナンダーは質問の意図がわからず
      答えなかったので、シャカは入滅した、と。しかし、それはいい
      ことかもしれない。

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2014年03月21日

サバイバル宗教論 佐藤優著



読書メモ

 2012年に京都の相国寺(臨済宗相国寺派)で行われた
「第15回教化活動委員会研修会」
での4回の連続講演をまとめたものを再編集したもの。
なお、相国寺は佐藤優さんの出身大学同志社の北側に隣接してあります。
キリスト教大学(牧師も育てている)と禅宗のお寺が隣り合ってあるわけです。

 ヤン・フス(1370頃ー1415。ボヘミア。チェコスロバキア)の頃はカトリックに女性の教皇がいたと信じられていた。9世紀、イギリス出身のアグネス(ヨハンナ)。(伝説の域)

 近代科学と魔術と宗教について。

 それから、最初のご質問の政治と宗教に関して言えば、日本人の宗教観は基本的に魔術的です。これは、神道の影響だと思います。ただし、実は魔術というのは近代科学と一緒です。たとえば丑の刻参り。丑の刻にわら人形と五寸釘を持っていく。最近は、通信販売で売っています。のろいのわら人形セットとか。それを持って、手続きに従って毎日同じ時間に行ってお百度を踏んでやれば、必ずのろいが実現する。これは近代科学と同じ考え方です。科学の実験というのは、だれがやっても同じ結果になるわけですから。
 ところが、そうではない出来事があります。それが超越性です。


 なるほどなあ。「手続きに従ってもできないことがある」こっちの考え方が宗教的と思っていたけど、宗教的な考え方でも「手続きに従っていればかなう」というのもあるのか・・・

 しかしまあ人間の努力(手続き)によっても神様のきまぐれで結果はどう転ぶかわからない、という考え方も神道にもありそうだけど。

グロスマン著「人生と運命」(みすず書房)は、「収容所群島」を抜くくらい面白い。

 佐藤さんが研究しているチェコスロバキアのフロマートカのいまわのきわに弟子に言った言葉。

「(私は命令したことは無かったが・・・)今回は命令である。(中略)いかなる困難があろうとも西側に亡命してはならない。同じ事柄を同じ時期に語る場合でも、チェコスロバキアの中で発言するのと西側で発言するのとでは、その意味は全く異なる。私たちは祖国にとどまることによって、すなわち民衆と苦難を共有することにおいてのみ、イエス・キリストの真実をあきらかにすることができるのだ」

ニコライ・フョードロフ(ロシア・19世紀終わり頃)
   本が読めるから図書館のカード係になり、給料は若い学生に
   みんな配ってしまった。彼のもとにトルストイやドスエフスキー
   が教えを請いに来た。また宇宙移住について考え、
   それがツィオルコフスキー(ロケットの父)に影響を与えた。

「『救済』として殺す」はキリスト教にもある。例。ルターのドイツ農民戦争の時の言葉。

ニューギニアの狩猟採集の民が定住しない理由。
   1.排泄物
   2.死体

 なるほど。どちらも「感染症」などの危険もあるし、また2の方はそれ以外のインパクトもある。
 で、佐藤さんは何度も「葬式仏教と揶揄するのは間違っている」ということを述べられているけど、ほんま、平安・鎌倉の頃遁世僧がやっと行き倒れた貧しい人を弔ってくれたんだよね。それってすごく大事なことだったに違いない、と思う。

 アメリカで小さな政府を主張したレーガンやブッシュ(父)の頭には政府が小さくてもコミュニティが助けてくれる、ということがあっただろうけど、実際はコミュニティの力が低下していて思うようにはいかなかった、とのこと。

 確かに、私も小さなキリスト教教会に通っていたことがあるのだけど、コミュニティを作ろうとしてはるな、というのはよくわかったもんな。そういう相互扶助の場が機能しているなら、政府が出張る場面は少なくてすむだろう。

 しかし、宮古島は8000人の人口で生活保護の不正受給などはない、つまり顔の見える範囲だと、相互扶助が機能しやすい、ってことなんだけど、その生活が息苦しいと思う人もいるだろうな。といって都市の無縁社会がいいってわけでもなく・・・(しかしそれが楽だ、と感じる人もいるだろうし・・・うむむ)


posted by kingstone at 21:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする