私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2013年09月21日

神道はなぜ教えがないのか 島田裕巳著



 題名は「神道はなぜ教えがないのか」ですけど、なぜかについては答えてないような・・・
 でも著者の言うとおり、

「神道には開祖も、宗祖も、教義もない」

はそうだな、と思います。で「ない」宗教で、それに対し仏教やキリスト教やイスラム教には開祖がありぃの、教義がありぃの・・・ってか聖書や仏典(お経)やコーランがある。(と書きましたが、本書では神道とイスラム教は共通性がある、という論が展開されてます)

 確かに「天照大神」は開祖じゃなく祀られる側だしな。で、別に天地を創造したわけでもないし。(しかし伊弉諾と伊弉冉がオノコロジマを作ってはいるけれど)

 で、日本ではかなり昔から神道(??しかし神道と言っていいものかどうかよくわからない、例えば自然の岩陰の元で行われた祭祀などがあったと。神社建築ができてきたのはかなり後年とのこと。日本書紀だか古事記だかに「修理」の記述があるので、そのころにあったかも、だけど、基本的には寺を見て、こういうもんかと作った可能性も)があり、そこに「ある」宗教としての仏教が入ってきたが、「ある」と「ない」でうまく共存できた、と。(「ある」と「ある」同士じゃあ喧嘩になるよな)

 なお、最古の寺は蘇我氏の氏寺で、飛鳥の法興寺とのこと。ただし当時の大伽藍は現存はせず、現在は飛鳥寺となっているが規模は小さい。また現存する最古のものは法隆寺金堂で7世紀後半だとか。

 で、蘇我氏対物部氏の戦いが「新しく入った仏教対古来の信仰」ということで語られるけれど、そうではなかったのではないか、明治の廃仏毀釈までは本格的な戦いのようなものはなかったのではないか、と著者は言います。(なお、中国では徹底的な廃仏毀釈が何度かあったそう。円仁が留学していた時にもおこり、円仁は還俗させらたそう)

 確かに、一見宗教的な戦いと見えるものが、実は「様々な他の利権」をめぐる戦いだ、というのはおおいにありそう。十字軍だってそうだろうし、イラクのスンニ派対シーア派とかいうのだって「実は別の利権について」だ、ということはおおいにありそう。でもそれを「宗教の戦い」にすり替えられちゃうだろうな・・・

 しかしまあ神道は結構なんでもありで、ハワイ大神宮などは、相殿にジョージ・ワシントンとカメハメハ大王を祀っているとか。いやあ、乃木神社とかあるから、「人を祀る」のはありだろうけど、この場合、祀られた相手も怒らないか??

「救済しない宗教」という章もあります。へっ?でも救済をお願いしたり、救済されたりすることもあるよなあ、と思いましたが、確かにあんまり「期待しない」というのはその通りかもしれない。柏手を打ってお賽銭を投げて「お願い」はするけど、まあダメもと、みたいな感じはあるよな。

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2013年08月01日

日本のキリスト教 古屋安雄著



 2003年5月25日に初版。私の読んだのは2004年1月14日の再版分。

 古屋安雄さんの2001年から2003年に書いた文を集めたもの。(書き下ろしもあり)

「なぜ日本においてキリスト教が広がらないのか」(日本の人口の1%。なお、1549年からしばらくで、日本の2〜3%が信徒であったそう)「伝導はどうあるべきか」という問題意識で書かれているものが多い。

 著者があげる大きな問題点として、明治以来のキリスト教が「武士道と結びついたキリスト教」であったという点。内村鑑三しかり、新渡戸稲造しかり。(また今やってる大河ドラマの「八重の桜」に出て来る新島襄だってそうだわな)

 つまり「立派な人の宗教」に偏りすぎてきたのではないか、と。あるいは「知識人のための宗教」(ただし、このあたりプロテスタントの話。カトリックについては、明治になってもなかなか入ってこなかった(やはり日本側に植民地化の先兵という意識がまだ強かったそう)が、入ってきてからはカトリックは「上流階級」と「下層階級」に主眼を置いたとか)

 その一例が「平信徒」という言葉。牧師を「えらい人」「士族」とし、そうでない人を「平民」とするみたいなもんか。で、伝道をえらい人に任す形になっていったと。

 それに対し、韓国では「民衆の宗教」として広がり、またそこから「民衆の神学」というのが出てきてるそう。(またその他、日本と韓国との比較においては、「日本では日本のナショナリズムと日本のキリスト教が対立する」形になったのに対し、特に戦前「韓国では日本のナショナリズムと韓国のキリスト教が対立(なので、韓国のナショナリズムとは一致)」とかいう指摘が、なるほど、でした)

 なお賀川豊彦についても2文が割かれている。これによると「少なくとも50年前(つまり1950年頃か)のアメリカではもっとも有名な日本人であった」とのこと。

 当時「最悪の貧民窟」と呼ばれていた町で幟をたてて伝道し「キチガイ」と呼ばれてたわけだけど・・・

 で、伝道者としても、労働運動家としても、また生協活動家としても、有名な方だけど、今は知る人も少ないのかな・・・

宗教・布教・伝道あるいは貶めること


  
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2013年05月22日

法然と親鸞 武田鏡村著



 当然だろうけど、Amazonで調べたら、同じ題名の本、いっぱい。

 メモ。

法然
1133年美作久米郡稲岡庄の漆間館に横領使漆間時国の子として生まれる。
1141年預所明石源内定明に荘園を巡る争いで攻撃され、父は死ぬ。今わの際に
   「敵人を恨むことなかれ」と言ったと伝えられている。
   奈岐山菩提寺の観覚に4年間かくまわれる。
1145年比叡山延暦寺西塔の北谷持宝坊の源光のもとに。
1147年皇円のもとで東塔戒壇院にて得度。
   しきりに「遁世」したいと言い出す。それは当時の比叡山が大衆といわれる
   僧徒と貴族出身の学生との対立や、山門と寺門との対立で殺伐としていたから。
1150年西塔黒谷の叡空のもとへ。叡空は良忍の弟子。良忍は東塔の常行三昧堂の堂
   僧となり、死者を回向する雑役(雑役!!)をつとめながら、不断念仏を修
   め、23歳のときに比叡山を下りて、大原の里に隠棲し、融通念仏を開いてい
   る。
   黒谷も大原も「別所」といわれる。「別所」とは、朝廷に従わなかった東北
   地方の蝦夷の俘囚たちを全国各地の山間地に封じ込めて監視したところ。他
   に八瀬、北白川、鞍馬、花背など。俘囚は比叡山で僧侶に使役される雑人と
   なっていた。
   別所には国家仏教による保護と統制はなく、それゆえ自由かつ平等な信仰の
   空間があったと考えられる。
   
 う〜〜ん、この本では黒谷別所は西塔から八瀬にいたる山道の途中と書かれている。で瑠璃堂を過ぎた青龍寺となっているが、この青龍寺と同じ??浄土宗のお寺ではあるけど、八瀬とかとは方角違いだし・・・

   ここで法然房源空と称した。18歳。
   叡空が「往生要集」を講じていて法然が反対意見を述べ、叡空が立腹し木の
   枕で法然を打った。しかし数時間のちに叡空が法然のもとに来て
  「法然が言うことは、天台大師の本意とするものであり、念仏の極意である」
   と自分の誤りを率直に認めたとか。
1156年(保元の乱の頃)南都の学匠を歴訪。しかし南都北嶺は激しく対立してい
   たので、最初、嵯峨にある清涼寺(釈迦堂)に行った。そこの浄土教人脈に
   頼った。
   この南都遊学のおりに民衆の生活にふれた。この頃、既に民衆の念仏信仰
   はあったらしい。
   黒谷に戻り、永観(ようかん。南都で学び永観堂の七世となる)が重視して
   いた善導の「観経疏(観無量寿経疏)」の称名の大切さを確信する。
   しかし「無量寿経」には称名すれば阿弥陀如来により往生できるとあるが、
   「五逆」と「正法を誹謗する者」は救われないとされている。
   しかし専修念仏は「誰でも往生できる」とした。(それがええなあ)

「選択本願念仏集」から

「念仏は唱えやすいために、すべての人に通じる。ところが、さまざまな修行は行なうことができないために、だれにも通用するものではない。そこで阿弥陀如来は、一切の衆生を平等に往生させるために、難しい修行を捨て、筒単にできる称名念仏をとって本願としたのである」
「もし、仏像をつくることや塔を建てることをもって本願とするならば、それかできない貧窮や困乏の人は、往生の望みが絶たれることになる。しかし富貴の人は少なく、卑賤の人ははなはだ多くいるではないか。
 また、もし智慧に富み、才能の高い人をもって本願とするならば、愚鈍や下智といった愚かな人は、往生の望みを絶たれることになるではないか。しかし智慧の深い人は少なく、愚痴の人は、はなはだ多くいるではないか。
 もし、多聞や多見できる人をもって本願とするならば、少聞少見の人は往生の望みを絶たれることになるではないか。しかし、多聞多見の人は少なく、少聞少見の人は多くいるではないか。
 また、僧侶のように持戒し持律できる人を本願とすれば、破戒や無戒の人は往生の望みが絶たれるではないか。ところか持戒持律の人は少なく、破戒無戒の人が多くいるではないか。
 このように、諸行や善行ができることをもって、本願とするならば、往生できる人は少なく、往生できない人か多くいることを思い知るであろう。
 そこで阿弥陀如来は、法蔵菩薩の昔、平等の慈悲の考えから、一切すべての人々を救うために、仏像や塔をつくり、寄進するなどといった諸行をもって往生の本願とはせず、ただ称名念仏の一行をもって、その本願としたのである」


 う〜〜ん、めちゃめちゃかっこええなあ・・・
 
1175年。黒谷別所を去り、西山の広谷(現在の金戒光明寺)に行く。この時、親鸞は3歳。
    もちろん、今の金戒光明寺みたいなものはなく、遊蓮房円照(信西の子。
    平治の乱の時、佐渡に流罪が決まったが、その後平清盛が台頭し、流罪
    にはされずにすんだが、出家して広谷に隠棲した)の草庵にいたのだろう。
たぶん1176年。吉水に移る。現在の知恩院の御影堂のあるところ。
    もちろん今のような立派な建物は無かったろうし、どのくらいのものが
    あったのだろうか?
    なお1211年に流罪が赦免になった時には吉水は朽ち果てていたので、
    大谷青蓮院に入った。

 一部省略しつつ引用
 当時の官寺とかは庶民は仏像を拝むことはもちろん、入ることもできなかった。庶民が参拝を許されたのは、庶民が自分たちの手で作った寺か、維持している寺。釈迦堂(清涼寺)、六角堂、空也の作った空也堂、六波羅蜜寺、皮聖行円が開いた革堂行願寺、清水寺など。縁日には多くの参拝者で賑わった。
 吉水では、だれにでも門が開かれているばかりか、法然からじかに話しを聴くことができた。これは極めて画期的であった。
 こうした対面による法話は、念仏聖が行っていたもの。念仏聖たちは「南無阿弥陀仏」と唱えながら、死者を回向したり、葬送したりしたりして庶民の信仰の支えとなっていた。
 かれらのなかには、生活のために聖になった人が多く、念仏の教義的な裏付けは、きわめて希薄であった。いわば習慣として念仏を唱えながら遊行している人たちである。法然のもとには、こうした念仏聖たちが、真っ先に聞法(もんぽう)に訪れていた。


 う〜〜ん、念仏聖、「生活のため」と書いてはるが、もちろん教義的裏付けは希薄であったのだろうけど、真っ先に聞法に訪れてはるんやよなあ。それまできちんとしたことを伝えてくれる人がいなかったのよなあ。ある意味、めちゃ「やる気」のある人たちだよね。

 しかし・・・吉水でどうやって「たつき」をたててはったのだろう?官寺とかだったら荘園があるかもしれない。比叡山だったら荘園もだし、金貸しも相当やってたみたい。そういうことでお金もうけをしていたと思うのだけど・・・聞法に来た人たちが「こころざし」というか「お布施(??じゃないよな・・・)」というか、そういうものを出していたのだろうか・・・

1180年。以仁王、諸国に平家追討の令旨を発するが平家に敗死。しかし諸国に反平氏の
    のろしがあがる。12月に奈良の東大寺や興福寺の衆徒が平家打倒に賛同してい
    るので平重衡を鎮定のために派遣。重衡は東大寺と興福寺を焼き払う。
1181年。親鸞9歳で出家。平清盛死亡。
1184年。一の谷の戦いで平家は敗れ、平重衡は捕まる。京都の大路を引き回されて、
    鎌倉に護送されることになったが、平家物語では「法然に会いたい」と言った
    と。助かる道を尋ねる重衡に法然は

「末法濁乱の世で救いの手をさしのべてくれるのは、南無阿弥陀仏と仏の名を唱える称名念仏です。これは、どのように愚痴闇鈍な者であっても、唱えれば救われるのです。罪が深いといって、けっして卑下なさってはいけません。十悪五逆を犯した罪業の者であっても、往生できることには、いささかも疑いはありません」
 法然の説諭に重衡は心から喜び、さらに受戒を求めると、法然は重衡の額に髪剃を当てるまねをして、授戒したのである。


 東大寺と興福寺を焼き、大仏も焼失させた重衡でも往生できる、と言ったわけ。

1186年。秋。大原の勝林院に招かれて、大原問答。法然54歳。顕真が招いた。
    顕真はたぶん1173年には大原に隠遁。しかし1190年には天台座主に
    なっている。招いたと言っても専修念仏が天台宗門と立場を異にする
    のではないか、ということを質すため。なお法然伝ではこの時にそう
    そうたる高僧が列席していたとされているが証拠はなく、著者曰く、
    「みんなそれほど暇ではない」
    なお、聖道門と念仏門との違いを尋ねられての法然の回答。

「これらの聖道門は、みんな教義が深く、しかも利益にもすぐれています。これは人という機と、教えという法が相応すれば悟りを得ることは容易です。
 しかし、私のような頑愚の者は、聖道門の器ではないために、ただ念仏の一門によるほかには、迷いの世界をはなれることはできません」
「私は、自分の力量の限界から念仏門を選んだもので、けっして聖道門のすぐれた人々の修行を妨げようとするものではありません」

    
 そうなんよ。大学院とかでむつかしい勉強をしてる尊い方が、身につけることのできるものは様々にありましょう。私のような力量のものは、簡単にできる実践の道を選んだので、その方たちの学問を妨げようとするものではありません。

 ところで九条兼実は、法然に帰依していたと有名ですが、実は病気直しの効験があると信じてのことで、法然の言いたいことは全然わかってなかったらしい・・・(笑)

1200年。吾妻鏡によると鎌倉二代将軍源頼家が、「黒衣をまとった念仏僧を嫌って
    念仏を禁断した」14人の念仏僧を集め、黒衣をはぎとって焼き払った。

 墨染めの衣を着るということは、ものすごいことだったのかな・・・

1201年。親鸞29歳。比叡山を下り、六角堂に百日の参籠。その後、法然のもとへ。

 六角堂は聖徳太子が創建したものと言われ、聖徳太子は鎮護国家の仏教なのだけど、もうひとつの太子信仰があった。官製寺院の信仰や仏像の加護から閉ざされていて、しかも造寺や造塔、経文などを寄進するといった善幸をつむことができないために、極楽往生できないとされていた人々の中で広まった信仰。

 なお、著者は女犯や性欲に苦しむ親鸞が救われた、という説に「あまりにも個人的」と斥け、もっと普遍的なものでは、と書いてはるのだけど・・・その「個人的」なことが「普遍的」なんじゃないか、と思うのだが・・・

1204年。比叡山の衆徒が専修念仏を停止するよう天台座主真性に訴えた。(法然72歳)
    法然は「七箇条起請文」を出して防衛(?)結局、他宗の批判はしない、議論
    は挑まない、むやみな教化はしない、などと誓わせられている。

 これって・・・まあ宗教的なことだから、他宗がめちゃ腹を立てる、というのはよくわかるのだけど、ひょっとして経済的なこともあったのかな??思想・宗教的なことだけで宗徒が動くか??

1205年。法然は親鸞に「選択本願念仏集」の書写を許す。
    奈良興福寺解脱房貞慶によって「興福寺奏状」が出る。
    朝廷はまるくおさめようとしたが、興福寺は許さず、で結果が・・・
1207年。「建永の法難(承元の法難)」後鳥羽上皇の女房が安楽と住連と密通したと
    して斬罪となり、法然は流罪となる。藤原定家の「明月記」にも出てくる。
   (親鸞も流罪となったということだが、これは証拠としては覚如の書いたもの
    しか無いそう)著者は「権力が宗教上の判断はせず、スキャンダルで断罪す
    ることはよくある」みたいなことを書いてるけど、なるほど沖縄密約事件み
    たいなもんか。
    で、実は醜聞とかよりも、「五障三従」で救いの対象となっていなかった女
    性に浸透していっていた、というあたりが権力にとって脅威だったのでは、
    というあたり、そうかもしれんなあ・・・

 なんとか教えを説かないことでとりなし、流罪を無しにしようという信空に対して。

「流罪に処されたことは、すこしも苦痛ではない。私は老齢の身であるから、娑婆の世界とは別離することになるが、どこに住んでいても死後に浄土で再会できることは疑ってはいない。
 流罪を契機に念仏の恩恵に浴していない辺鄙な地方で田夫野人たちにすすめることは、私の念願であった。それかかなえられるのであるから、流罪は朝恩ともいうべきものである。
 念仏は、どんな力や処罰でとめようとしても、とどまるものではない。なぜなら、衆生を救わんとする諸仏の誓いは、無限であるからである。だから、世間を慮って、『浄土三部経』や善導大師の教えの真意を隠すことはない」


 西阿という門弟が「もう教説を説かれるようなことは、けっしてなさってはいけません」と言うのに

「たとえ死刑になったとしても、専修念仏の教法だけは申さずにはおれない」

 もう、めちゃめちゃかっけえ。

 法然の流罪の経路。
 川船で淀川を下る。
 播磨の高砂、室津。
 讃岐の塩飽諸島。
 讃岐小松庄の生福寺(ここは移転して高松の法然寺になったとも)

 室津の遊女への言葉。

「遊女の身でなければ、生きていけないのであれば、その身そのままで念仏しなさい。あなたのような人のために、本願の救いが説かれているのです。女性は本願の救いの対象となる正機で、けっして卑下するには及びません」

と進み、土佐に着く前に赦免になり、摂津箕面の勝尾寺へ。勝尾寺の第四世証如は親鸞が尊崇してやまない賀古(かこ)の教信から念仏往生をすすめられて、浄土教の信者になっていた。

 この賀古は加古川。で、教信は野口に住んでいた。781年頃の生まれ。興福寺で修行したが沙弥なので正式な受戒はなかったと思われる。866年に亡くなっている。(って85歳!!めっちゃ長生き)

 ほう。こんなところがある。教信寺。 
 加古川バイパスの加古川出口を出て南側すぐか。行ってみようっと。

1211年。法然、京都に戻る。九条兼実に託されていた慈円が青蓮院の一部を提供したといわれている。
1212年。正月。亡くなる。
    亡くなる直前、弟子たちが阿弥陀如来像を持ってきて、その指先から五色の
    糸をのばし握るように勧めたが、

「そのようなことは、常の人が行うことであるが、私はそれに従わない」

 ほんまなあ・・・良かれと思って弟子たちは余計なことを言い、するのだなあ。

 米増(現上越市板倉区)に、恵信尼公御廟所があるのか。 

 報恩寺は親鸞の信頼の厚い弟子性信が開いた。ここには「まな板開き」という鯉料理の儀式が残っている。これは「殺生しても往生に障りはない」ことを示したもの。報恩寺はもともと下総だけど、今は移転して台東区か。

 信濃の善光寺は、物部守屋が難波の浦に沈めた(廃仏のため)一光三尊仏を、本田善光が拾って安置したところから始まったと。

 歎異抄13条から
「海・河に 網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥を とりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐ るひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、 いかなるふるまひもすべし」

 これは当時の「悪人」とされていた人たちだけど、「課税の対象で無かったから」とのこと。なるほど。

今に生きる親鸞  吉本隆明著

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし(歎異抄より)

浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか 島田裕巳著

法然の衝撃 阿満利麿著 1

法然の衝撃 阿満利麿著 2

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2013年04月27日

迷える者の禅修行 ネルケ無方著



 ネルケ無方著 新潮新書
 著者は1968年生まれのドイツ人。俗名はイェンス・オラフ・クリスティアン・ネルケ。
 現在安泰寺(曹洞宗)の住職。

 子どもの頃から「生きるとは何か、私とは何か」という問題に心を悩ませ(ってか向こうから掴み取りに来るんだろうな)ていた。高校(クリスチャン・スクール)で元神父の主催する禅メディテーションサークルに誘われたのをきっかけに参禅。この時に「身体の発見」があったと。
 その後、高校卒業から大学入学までの期間日本に滞在したが「日本に仏教が無い!人々が関心を持っていない!坐禅させてくれるところが無い!」という事実に驚愕する。

 アニメオタクが日本に来ても、こういう驚愕は味あわないですむかな??へへえ、と関心してくれこそすれ、「そんなもん興味が無い」とまでは言われないかな?

 1990年京大に留学。
 園部の昌林寺で修行。
 いきなり典座にさせられるが、その長だったスゥエーデン人が3日で逃げ出し、責任者となる。しかしなにも教えてもらえない。で

ネルケ「どうして私が参禅者のための料理などできようか。まずは私に誰かが料理を教えるのが道理ではないか」
和尚「これこそが道元禅師の言われる『現成公案』やないか。『正法眼蔵』を読んどかなあかんやろ」

というやりとりをしたそう。

 うむむむ・・・でも大きな塔頭だったら、とりあえずのことは教えてもらえるんじゃないかなあ・・・

 もちろん「今、ここ」は大事だし「誰も教えてくれない」とふてくされてはいかんやろけど。

 例えば、特別支援学校で何も教えずに新赴任の教師を現場に「叩きこむ」はまずいやろし。
 「今、ここ」を大事にして、自ら学んでいってくれたらいいと言ったって、子どもという相手のいることやしねえ。彼らに被害があってはいかんやろうと・・・

 後で元寿司職人の先輩雲水の話が出てきます。寿司職人時代、1年間洗い物ばかりさせられ、1年後、急に「今日からお前も握れ」と言われる、そしてそれができるように技術を(洗い物をしながら)盗んでいなければならない。

 この話も成立するのは、「先輩職人がきちっと仕事をしている」という前提があってのこと。

 でもほんまは私も「自分でつかめ」みたいな話の方が好きなんやけどね・・・(^_^;)

 昌林寺にいる時、しばらく安泰寺に行く。
 山寺で前日の台風で山道がこわれ、流れに木で橋をかけて渡っていくような状況だったとか。
 当時の堂頭さん(住職さんにあたる)は高校卒業後しばらくチーズ会社に勤め、1970年からヨーロッパ、ニューヨーク、アラブ、インド、対、オーストラリアを4年間旅して、やがてヒッピー生活から卒業しようと出家した方。その方との最初のやりとり。

頭「何をしに安泰寺に来たの?」
ネ「禅を学ばせてもらうために、そして修行をさせてもらうためです」
頭「安泰寺はお前が作るんだ」

 なるほど。

 で作務(掃除・動物の世話・土木工事・典座その他)のきつさにびっくりします。しかしここでの半年の修行で著者ははじめて「生きる実感」を得たとのこと。

 なお典座教訓の話。しいたけを干している老僧との会話。

道元「暑いのに、そんな年で労働などしないで、経典を学んだり、坐禅をしたりしたらどうですか。そんな仕事ぐらい、誰か別の人にさせたらいいではありませんか」
老僧「ワシこそその当人だ!『誰か別の人』がワシの代わりになるはずがない」
道元「それならこんな真っ昼間の炎天下ではなく、もう少し日が低くなってからすればいいのではないでしょうか」
老僧「今こそやらなければ、いつやるというのだ」

 ひょっとすると、これ「今、ここ」とか深読みする話ではないのかもしれませんが・・・

 その後、ベルリン自由大学に帰って出した「現成公案」についての修士論文が評判になり、博士論文のために毎月35万円出す、成果は問わない、という条件が出され(すげーー!!)大学をやめて修行しようというのに迷いが出て京大に再留学。

 1993年秋に出家得度。

 しかし、その後の安泰寺、そして臨済宗のお寺(名は書かれていない・・・そうやろなあ)での修行はまあ厳しいというか・・・

食う、寝る、坐る」や「ファンシィダンス」の世界ですね。

 しかし、儀式化された入門時の作法がなんてえか・・・まず断られるわけですが、そこで動かずじっとしていると「追い出し」といって乱暴に外に投げ出されることがあるんですが、これがまあ「不自然な姿勢でいる入門希望者の身体を動かしてあげて楽にするため」。だからその「追い出し」役の雲水さんがいない日はずっとじっとしていなきゃならなくてとてもしんどかったとか。また最初に「追い出し」をされた時、外で待っていた雲水さんが「これも一応決まりですから。あそこの六角堂の裏で骨伸ばしをして、煙草でも吸って下さい。30分くらいたったらまた戻ってね」と教えて下さったそう・・・めちゃ丁寧やなあ・・・

 で、もともと安泰寺でも
「私が坐禅をする」が「坐禅が坐禅をする」
という体験をしていたけれど、さらにそれが深まり、ある日、木の葉にたまった露に陽光があたっているのを見て「私は生きている!命は私を生きている!」

という体験をされます。しかしここでの1年ほどの修行のあと、本来上の立場(修行年限で)であるのに、どんくさく、いじめられ、本来下の立場の者に命令されて木に頭をぶつけ続け血を噴き出している雲水を見、そして何もせずに見ている自分や周囲に疑いが出て、下山を決心します。

 で、大阪城でホームレスをしながら、石垣の上で坐禅会をし、ネットカフェでチラシ(文集)を作ったり、托鉢したりしてたそう。辻説法はそうそうにあきらめたそうです。寄ってきて、お布施を入れてくれる方も、話しかけるとひいちゃう・・・なるほど。
 たぶん今は大阪城にはホームレスさんはいないんじゃないだろうか・・・

 辻説法ってのは難しいやろなあ・・・

 そうしていたところに安泰寺の堂頭の突然の事故死があり、住職を任されて現在に至る、ということです。

 ところで現在の安泰寺はより国際化が進んでいる、と。で著者の大事な仕事は
「『修行のイロハ』を叩きこむのが私の役割です」
とのこと。
 で、これ文字通り「叩き」こんでるのかどうかはわかりませんが(他の禅道場の場合、本当に物理的に「叩きこむ」がありそう・・・)、ニコニコ優しくしながらでも「叩き」こめると思うのね。

 それをなんか実現したいなあ。
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2013年03月17日

今に生きる親鸞  吉本隆明著



 2001年9月20日発行

 吉本隆明さんって、若い人には吉本ばななさんのお父さんと言ったほうが伝わるのだろうか?

 この本は4つの記事(講演を文字化したものかな?)をまとめたもの。

 法然上人は比叡山を下りて、1175年から現在の金戒光明寺のあたりに草庵を結んで浄土宗の布教を始めます。

 一方、浄土宗が盛んになってくると、比叡山は妨害を始めました。比叡山の一番位の高い僧侶、大僧正というのか、今で言う管長は良慶という学問のある坊さんでしたが、この人が、法然の悪口を言うわけです。いい加減なことを流布している、と弾劾状を出すなど、いろいろな妨害をしました。比叡山としては、念仏だけ称えればいいという簡単な教義のおかげで、浄土教が貴族階級や武家階級だけでなく、庶民にまで広まっていったことに危機感を覚え、何とかして抑えようと、批判を加え、邪魔をしたのです。
 しかし、浄土宗が広まってくると、中にはとんでもないことを言う信者も出てきます。念仏だけ称えれば、あとはどんな経文も宗派も問題にならないというふうに主張する。そんな信者も出てきました。そうなるとなおさら、あれはでたらめな宗派だということで、方々から批判を被ることになりました。
 浄土宗を批判するそうした弾劾状の中で、現在読めるほど広まっているのは、比叡山系統のものです。中でも、興福寺の学僧貞慶が書いたといわれる『興福寺奏状』が有名です。当時の律令の僧侶令によれば、朝廷の許可なくして新しい宗派を開いてはいけないことになっていました。ところが、法然は、朝廷の許可を受けずに、自分の考えている教義に従って、勝手に浄土宗を広めていったのですから、興福寺が殺気だって邪魔をするのも当然です。


 うわっ、ありがちなこっちゃなあ・・・

 あと栂尾の高山寺の学僧、明恵も「摧邪輪」を書いて批判します。その学僧たちと法然上人とどこが違っていたのか、という点について著者は

 法然と叡山や栂尾の明恵のような名僧・学僧たちと何が違っていたのでしょうか。わたしがいちばん重要な違いと考えるのは、法然には生々しい現実社会の動きや変化の方向がよく洞察できていたのに比べ、叡山やその他の学僧たちは、自分たちをそんなこととかかわりない僧侶としての修行を志し、それを遂げればいいと考えていたにすぎない点だと思います。
 時代の社会がはげしく動くときは、一見何の関係もない宗教や学問の修行が、生々しい現実の社会の変化と、皮膜を接触するほど接近して感じられることがあります。宗教や学問にしても、重要性を洞察し実感できることが大切な時期があるのです。
 法然は時代が貴族や武家だけでなく、一般の庶民の無意識をつき動かすようになってきたことを洞察できていたのだと思います。


 うむ〜〜、洞察とかいうのとはちょっと違うかもしれない・・・でも目の前の人たちを見て、つき動かされる思いがあったんやろなあ。

 で、親鸞上人の場合は、やはり叡山で疑問を感じて六角堂に百日間参籠し、聖徳太子の夢告を受けるわけですが・・・私の昔からの疑問。この時、親鸞上人は夢精したのだろうか??

 その後、法然上人のもとで百日間学び、しかし安楽房・住蓮房の事件が起こって越後に配流になり恵心尼と結婚するわけです。で

 親鸞が行きついたのは、「おれは坊さんをやめた」というのとおなじで、非僧非俗と自称しました。ほとんど首の皮一枚で僧侶ということにつながっています。要するに破戒坊主で僧侶の世界の常識では一番堕落したということになります。
 親鸞は妻帯し、子どもをもうけ、また魚や獣の肉を食べて、僧侶であることを戒律として停止しました。これは「非僧」とか「禿人」とかいう生き方です。また生活の面からいえば、俗人とまったく同じ生き方といえます。けれど俗人そのものにはなり得ないのです。親鸞自身は「愛欲の海」に溺れたり、「名利に人師を好んでいる」からだと謙虚に言っています。
 親鸞は同時に、愛欲や名利への欲望か重大な罪業であることを深刻にうけとめ、人間の規模の倫理では、それを免れることも、離脱することもできないことをよく知っており、自分を罪人とする自覚と内省力をもっていました。これが罪障感としてあるかぎり、俗人にはなれないと思ったのです。これが「非俗」の意味です。
 親鸞の『非僧非俗」は、じぶんは僧侶にもなれないし、俗人にもなれない存在だという懺悔を語っているのかも知れません。だが価値観としては、じぷんは僧侶以上だが俗人以下だと言っているのかも知れないのです。そしてこの懺悔があるかぎり、親鸞は僧侶以上で俗人以上だと受けとることができるように思います。


 私が自閉症の方へのあれこれに関わろうとする時、「名利への欲望」は大きい。そこんとこは自覚的でありたいと思っています。

 「名」私はパソコン通信の時代から、kingstoneという名前に誇りを持っていたし、「名を惜しむ」という気持ちもあった。だから変な実践は書けない、という思いがあり、より良い実践を求めた、というのがあるよな。

 それから「利」については、なんせついこないだまで無職だったんだから、お金が欲しいです。やっぱり「儲けたい」って気持ちは大きいよ。

 で、それをつゆとも「罪業」とは思ってないけどね。しかし自覚的でなくなればなんか「ええことしてる」と勘違いしちゃうんじゃないか、と思う。

 で、私は周囲(行ける範囲。ついこないだまでは「歩いて行ける範囲」と思っていたけど、最近はほんの少し範囲が広がっている)に、自閉症や発達障害の関連で困っている人がいたら何かお手伝いができたら、と思っているし「飛んで行く」という気分でいるけど(でもお金は頂くよ)

 しかし吉本さんは、唯円が歎異抄の中で親鸞の言葉として「目の前の飢餓の人のために動こうとするのは、やってもいいけど、一番いいことではない。ひとたび往生を遂げてから還ってくればすべての人を助けおおせる」という意味のことを言ってると書いてるけど、今「歎異抄」を読んで見たけど、どこかわからない??
 本当に「歎異抄」の中にあるのかな??別の書物じゃないか??

 まあそれもそうだと思う。何カ所かで吉本さん、ここに言及してるけど、どうやらそれは「こういう善行をすれば往生に近づく」とかいうことを考えるのは間違ってるよ、というころらしい。それは往生と何の関係もない、と。それならよくわかる。

 で、私は往生はしていないのだから、目の前のことをやっていくしかないんだよ、と思ってるわけ。「すべての人を」なんて大それたことは無理だと思ってるし。で、すごく修行の必要なものではなく、簡単にできることを広めていきたいのね。つまり易行。そして

歎異抄第八条(こちらから引用)

第八条
 一 念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行 ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあら ざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、 行者のためには非行・非善なりと云々。


 わがはからいじゃない、そこに行きたいよなあ。

 あと「一念義」とか「造悪論」って言葉を覚えた。
 「造悪論」ってのは「善人なおもて往生する、いわんや悪人をや」という「悪人正機」説を拡張(?)し、「じゃあわざと悪いことやったらええやん」とか考える論。これは歎異抄の中でも第十三条に

「薬あればとて、毒をこのむべからず」

ってありますね。そりゃしかたなくやっちゃう時はあるだろうけど、わざとやっちゃいかんよな。
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posted by kingstone at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする