これは評伝というか、歴史小説のジャンルになるのかな?
著者は他に
「大杉栄伝 永遠のアナキズム」
「村に日をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」
「働かないでたらふく食べたい「生の負債」からの解放宣言」
「アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ」
などの著書があり、アナキストと自己規定してはります。
なるほど、「組織(寺とか教団とか)」を作らないように、作らないようにと意志してきたであろう一遍上人に興味を持ちはるのもむべなるかな、ということなのかも。
まあ、でも一遍上人は、既にある寺院や神社は否定してはいませんけど。
しかし、当時はまったくもっての神仏習合だったんですね。
上人もたくさんの神社を回ってはる。
年表
( )内は数えの年齢
1239(1) 一遍生まれる。松山(道後)
1248(10) 母死亡。一遍出家する。名前は随縁。
1151(13) 太宰府の浄土宗西山派の聖達(しょうたつ)に師事。
1263(25) 還俗し故郷に戻る。奥さん二人(妻妾同居)
1271(33) 親類に殺されかけ返り討ちにする。
1273(35) 山岳修行(半年)
1274(36)
遊行の旅へ。家族も捨てたつもりだったが、妻子(超一、超二)もついて来る。
元寇(文永の役)の戦場に行き、ケガ人の治療にあたった。(戦国時代にも時宗僧侶が赤十字みたいな働きをしていたのはそのせいか)
治療については、温泉施設も作っている。道後温泉の生まれだから詳しかったのか。
1279(41) 自然発生的に踊り念仏が始まる
1282(44)
鎌倉を目指すが北条時宗一行に止められる。鎌倉の周囲で踊る。
1283(45)
尾張の甚目寺でたくさんの喜捨が届いたので炊き出しを始める。これより炊き出しが慣例となる。美濃から近江を目指すと、東海道の悪党たちが「一遍上人とそのお供をする人たちに迷惑をかけてはいけません。従わなければ殺します」という高札を立てたので、以後は安全に移動できるようになった。
1289(51) 兵庫の津(大和田泊)の観音堂(現真光寺)にて死去。
真光寺には行ったことがあります。
なお、教信寺にも行かれたとか。教信上人(786生まれ)を崇敬してはったとか。
ふむ。この記事に書いてある生まれ年と、本に書いてある生まれ年が違いますね。
なお、教信寺にあった説明では上人のことを
"教信の活動はひたすら念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをする"
と書いてありましたが、この本によると、運送業でお金を稼ぎながら、念仏を広めた(半僧半俗)ということみたいね。そのほうが納得できるな。
一遍上人は空也上人も崇敬していたのですが、空也上人も踊りながら念仏をしていたらしいです。それを六斎念仏と言うとか。
Wikipedia によると「踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない」だって。
しかし、途中からは有名になってたくさんの喜捨がもらえるようになり、一緒に移動する集団も食べていけるようになったろうけど、最初はどうだったんだろう。最初の頃、九州を遊行している時は半裸で下にだけボロボロの布が巻き付いている状態だったそうだけど。
ということは、故郷からの仕送り(領地からの上がり)が送られているわけでもなく、本当に乞食僧として活動してはったんやろな。(西行法師の場合は領地からの上がりで生活していたのじゃないかな)