※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2022年08月15日

『歎異抄にであう』阿満利麿著




 歎異抄関連を本を久々に読みました。

 結構新鮮な気持ちで読めたかな。

 現在、日本では「私は無宗教です」という人が多い。これは明治国家が

「国家神道」という創唱宗教を作ろうとした→「(他の宗教の)信仰心や宗教心は個人の内面にとどめておくべきである」とした。→(そのうえで)「国家神道」は宗教ではなく「国家の掟」だとした→「国家神道」は「宗教」ではないことになった

というふうに論じてはる。そのせいで「私は○○宗(教)です」と表明しにくくした、ということかな?あくまでも内面に留めておくべきものだ、とされたから。

 また明治初年の廃仏毀釈および財産没収はかなり徹底したものだったらしいし。(ただし、それは庶民の寺院への恨みも相当溜まっていたからかもしれない。桂米朝師匠の「三年酒」では檀家制度をたてに取る、嫌がられている寺(お坊さん)が出てくる)

 蓮如が歎異抄を発見したけれど、教団に都合が悪いから禁書にした話は有名だけど、その「都合が悪い」ことの大きな理由のひとつが

「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」

だってのは、なるほどな、です。今までそこに気づいてなかった私はあほかいな、ですね。そりゃ教団経営の妨げになると考えても不思議はないわなあ・・・まあだからこそ魅力的な言葉なんだけど。

 あと「悪人正機」だからわざと悪いことをしようというのは違うよ、というのは知っていたけれど、「悪人こそ救われるのならば、わざと悪いことをしよう」と言って悪人ぶる人に対し、「それは本願ぼこりと言うものだ」と批判する人も批判している、というのも面白い。

 つまり「批判する人」は、「人間は善悪を選択できる」と考えている時点でおかしい、と。唯円は「善悪は選択できるのではなく、宿業で決まっているのだから」というわけ。

 また似たような感覚の言葉として「煩悩具足の我ら」というのは「私にも煩悩がある」ということではなく「私が煩悩である」ということ。「煩悩」を所有していて、それを捨てたり消したりできるわけでないということ。

 こういう考え方、好きだな。

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2022年03月14日

『最澄と徳一』師茂樹著




 私は全然知らなかったのですが、天台宗の最澄法相宗の徳一の論争は日本の仏教界を揺るがせるものであり、その影響は明治時代まで(ひょっとして現代まで?)続いていたと。一説ではこの論争が最澄の命を縮めたとまで言われている。

 それは三一権実諍論と呼ばれ、Wikipedia によれば

「天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張」

というものであるらしいのだけど・・・お互いに論争するわけだけどそれに対して根拠を示すわけね。今なら「どこそこの論文によると」であるように「どこそこの経によると」と例をあげていくわけだけど、仏教界にはその作法があり、

因明(いんみょう)→ 仏教論理学・議論の方法
共許(ぐうご)→ 双方が承認していること
世間共許   →(業界の?)常識

また経の正当性を言うのに、教相判釈(きょうそうはんじゃく)という文献学みたいなものを用いると。

 で、お互いが承認しているところから議論を積み上げていくということだけど、最澄は当時流行して一気に多くの仏教者に広まった(過去は知られていない)考え方を世間共許として提出したりもしていたらしい。

因明においては本来は証義者(しょうぎしゃ)という判定者がいる。(しかしこの論争においては居たのか?居なかったよな)

 ただなあ・・・現在の後知恵かもしれないけれど、例えば中村元の「バウッダ」によれば一番最初の経典群である「阿含経」が

「『阿含経』は、仏教の創始者ゴーダマ・ブッダ(釈尊)の教えを直接に伝える唯一の経典群であり、同時にまた現存の『阿含経』は、ゴーダマ・ブッダ(釈尊)の教えを原型どおりに記しているのでは、けっしてない」


というものだし、そもそも、大乗仏教の経典群はいろんな人が後々に自分の哲学・思い・到達点でもって書いたものだし・・・

「あそこにああ書いてあったから、これが正しい」と言えるようなものじゃないのじゃないのかな?

 いや、もちろん信仰とか宗教とかは、最終的にはエビデンスとかなくても「私は信じる」というものだし、それでいいと思っているのだけど。

 でもって、どっちでもいいなら私は、「みんな成仏できるよ」という一切衆生悉有仏性のほうが景気良くていいじゃん、と考えるバチ当たりだったりするわけですが。

 しかし仏教界には「論争を起こすと地獄に堕ちる」ですることという考えもあったそうです。

 時代は下るけど、法然の大原問答なんかもそんな感じでやられたんだろうか?

 しかし、本書にも書かれていますが、「相手を潰す」ことが目的ではなく「議論によってそれぞれが思う正しい方向へ赴こう」という方向性ならいいだろうな。

 なお、アメリカの歴史学者ヘイドン・ホワイトは過去を

「実用的な過去(practical past)」(地元を愛し、物語を作る。郷土史とか→行き過ぎると「歴史修正主義」や「排外的な愛国主義」に)

「歴史学的な過去(historical past)」(時に正しくて人の心を傷つける)

と2つに分類してはるとか。なるほどな。





posted by kingstone at 00:26| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月13日

『阿吽』おかざき真里著




 1〜14巻、全巻購入し、やっと14巻完結まで読めました。

 作者のおかざき真里さんが、「今買っておかないと将来は全巻揃えるのは難しくなる可能性がある」と時々ツイートしてはりました。

 これは、私も他の漫画で体験してるし、テーマは爆発的に売れるようなものでもなさそうだし、途中までは1冊ずつ読み終わってから注文(近所の本屋さん、流泉書房にはそのままでは入ってこないので注文する必要があります)してたのですが、14巻が出た時に12巻〜14巻はまとめて注文しました。

 最澄(日本の天台宗開祖)と空海(真言宗開祖)の(主として)青春時代から亡くなるまでが描かれています。

 定説では、二人の関係は途中から悪くなる、というものだと思いますが、確かに空海が「最澄が伝法灌頂を受けるには(他の優秀な者なら1年のところ)3年かかる」と言ってるところはあるけれど、最澄が東北に行くと聞き、徳一との邂逅を心配するところも出てきます。「関係が悪くなったというよりもお互いが忙しくなった」という解釈がされているのかな。

 私がこのあたりのことを読んだのは、司馬遼太郎さんの「空海の風景」でくらいなのですが、「空海の風景」でも空海が唐に行ったところまではワクワクして面白いのですが、帰国して高野山を作ったあたりからは、何か面白さが減る感じがしました。(攻撃から守備に移るから?)


 でも、この漫画では、二人の人生が最後まで面白く読めました。

 空海の満濃池改修のエピソードも、面白かったです。

 しかし・・・最後の方の「現代の風景。夜景。マンションのベランダの手すりみたいなところに立つ二人の人の脚が見えている」はどういう意味だろう・・・






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2020年12月27日

阿・吽 おかざき真里著




最澄 766/767年 - 822年
空海 774年 - 835年

のお二人が主人公とのことで是非とも読んでみたい本でした。

 最澄の子供時代から始まります。

 そして最澄が戒を授けられる(高級公務員となる)さいに当時の鎮護国家の仏教が王権と結びついて腐敗している様子も描かれています。

 また人々が簡単に殺されていく様子も。

 そうだったろうと思います。そしてそれはほとんどの人が食べていくのもたいへんな時代であったからこそ、というのもあるでしょう。

 最澄が寺のメインストリームの出世コースを離れ、自分の仏教を追求するために山に籠もると弟子志願者(私度僧)がやってきて、集団ができていきますが、別に仏教を追求したい者ばかりでなく、食い詰め者(しかし当時のほとんどの人は食い詰め者ではなかったんだろうか)もやってくる様子が描かれています。

 そして求道ではなく、ある意味、組織を維持し、いわば事務職を積極的に担おうとする者も表れます。

 なかなか面白いです。

 天台宗も真言宗も元は民衆のための仏教ではなく、鎮護国家の仏教だったと思いますが、特に天台宗は組織が大きくなって圧力団体にもなり、また怪しい人も周辺に増え、そしてそこから鎌倉仏教の祖師たちが輩出されていくというのが。


 神戸市西区に如意輪寺があります。


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 元は千年ほど前にできたそうですが、「こんな山の中になぜこんなに立派なお寺が」と思ってしまいますが、今でこそ明石川から続く谷間の奥の辺鄙な地、と思ってしまいますが、当時は京の一部以外はみんな「辺鄙」な所だったのだろうな、と思います。

 そして、なぜこんなところに人が集まってきたのか、というのも「食える」からなのでしょうね。

 西洋、中東の修道院について書かれた

のアントニウスのところでの私の感想

"ここで大事だと思うのは、ローマの貴族にとっては質素な生活だとしても、当時のエジプトの農民にとっては当たり前の生活であった、という記述が後で出てくる。そうだろうなあ・・・食ってけるから人が集まる、という面が、大きくなる組織には必ずあると思うから"

 今、流泉書房さんに第4巻を注文しています。楽しみです。


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2020年11月14日

法然の浄土思想(「一遍 捨聖の思想」桜井哲夫著より)






1207 建永の法難までは書いたけれど、浄土宗としては、その後

1227 嘉禄の法難ってのがあったんですね。

 弟子たちが力を持ってきたので、比叡山の僧侶が攻撃して来、かつ法然の墓も暴いたという・・・そして朝廷が取り締まるので、比叡山は攻撃してくるな、という命令が出て、専修念仏禁止令が出る。

 隆寛、幸西、空阿弥陀仏が遠流される。

 なお、浄土宗西山義(西山派)の開祖、証空は法然の勧めによって天台でも修行をしていたので、天台の一流と見られ、流罪にならずにすんだ。



 そこまで攻撃されたのは、阿弥陀如来の前の平等の思想に既存仏教が危険を感じたのかも・・・ここにものすごい思想的な転換があったのかも。(このあたりカトリックに対するプロテスタントみたいな感じがあるよな)

 そして、浄土教(浄土宗)には分派がいっぱいできたのは、それだけ「宗教としての生命力」みたいなものがあったのかもしれない。

posted by kingstone at 23:31| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする