私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2020年11月14日

法然の浄土思想(「一遍 捨聖の思想」桜井哲夫著より)






1207 建永の法難までは書いたけれど、浄土宗としては、その後

1227 嘉禄の法難ってのがあったんですね。

 弟子たちが力を持ってきたので、比叡山の僧侶が攻撃して来、かつ法然の墓も暴いたという・・・そして朝廷が取り締まるので、比叡山は攻撃してくるな、という命令が出て、専修念仏禁止令が出る。

 隆寛、幸西、空阿弥陀仏が遠流される。

 なお、浄土宗西山義(西山派)の開祖、証空は法然の勧めによって天台でも修行をしていたので、天台の一流と見られ、流罪にならずにすんだ。



 そこまで攻撃されたのは、阿弥陀如来の前の平等の思想に既存仏教が危険を感じたのかも・・・ここにものすごい思想的な転換があったのかも。(このあたりカトリックに対するプロテスタントみたいな感じがあるよな)

 そして、浄土教(浄土宗)には分派がいっぱいできたのは、それだけ「宗教としての生命力」みたいなものがあったのかもしれない。

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2020年11月13日

法然(「一遍 捨聖の思想」桜井哲夫著より)




でも
「公的な僧の位階制度が整い、僧の寺院組織内での出世志向が強まった。その世俗的な風潮に嫌気がさして、寺を出ることを「出世間」と呼び、「出世間」した僧のことを「遁世僧」と呼んだ」
と書いたが、沙弥や聖が住む場を別所と呼んだ。

1133〜1212 法然房源空

9歳(1142?)の時、父戦死。「敵をうらむな」
1147 授戒
1150 黒谷別所の叡空のもとへ
1156 嵯峨、奈良、仁和寺などで法相、三論、華厳を学び、再び黒谷へ
   保元の乱(崇徳上皇が讃岐に流される)
1163〜1166 比叡山の内部で武力衝突が繰り返される
1175 称名第一を称え、叡空と対立。比叡山を出る。広谷→吉水
1198 選択本願念仏集を撰述する。
1205 興福寺奏状
1207 安楽坊、住蓮房の事件(建永の法難)
1208 流罪。その途中に室津にも寄る。しかしその年のうちに恩赦が決まり、箕面の勝尾寺に入る。
1212 吉水で入寂。

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2020年10月13日

日本の浄土思想 仏教伝来から奈良時代まで(「一遍 捨聖の思想」桜井哲夫著より)




 仏教伝来については、私は538年(ごさんぱい)と覚えていたけれど、これも諸説あるそうで、Wikipedia では、538年説、552年説が紹介されている。

 この本では、538年には確かに仏像などは送られてきているが、あくまでも私的なものであり、私的なものならそれ以前にもあったであろうと。そして吉田一彦説の蘇我馬子の「法興寺(飛鳥寺)創建」の588年を国家としての仏教伝来の年と考える説も紹介されている。

 う〜〜ん、「伝来」と「公伝」という言葉によっても変わってくるかな?

 538年の時は、蘇我稲目が自分の邸宅に仏像を祀ったのだけど、その2年後(!)に疫病が流行り、物部守屋が「仏像(外国の信仰対象)を祀ったせいだ」と難癖をつけ、蘇我邸を焼き、仏像は破壊されたとのこと。天皇も黙認するしかなかったとか。(まあ当時の豪族の仲の悪さというか攻撃性ははんぱなく、だからこそ、後に「和をもって貴しとなし」なんてことをわざわざ宣言しなけりゃならなかったんだよね)

 でも物部も後年、寺を作っていたらしい。

 なお、538年頃、司馬達等の娘、嶋が高句麗僧恵便に従い出家・得度し「善信尼」となり、百済に行って授戒し、帰国した。
 
 百済にまで行ってたのは知らなかったな。

629〜700 導昭 唐に留学。玄奘のもとで法相唯識、禅観を学ぶ。

709〜?  智光(三論宗)「無量寿経論釈」を著す。世親の「浄土論」の注釈書。

741    聖武天皇が国分僧寺、国分尼寺の建立を発願。

 その総国分寺である東大寺の大仏が盧遮那仏(華厳経の仏)だったため、華厳宗ができる。

 それまでの三論宗、法相宗に加えて華厳宗、そして鑑真がやって来ると律宗が成立した。

 この時期に浄土の教えが広がっていく。その理由として

「『我欲(所有欲)と支配の罪業意識』が官僚と貴族社会に広がったから」

という説が紹介されているのだけれど、そんな「自分の罪」を感じるような人たちだったのだろうか・・・

 その後には「中・下級貴族のついてない思い」みたいなことが書かれてて、そっちのほうはわかるような気がするのだけれど。で、だから、来世は極楽に、みたいな。

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2020年10月12日

日本の僧に関する制度と制度外、呼称(「一遍 捨聖の思想」桜井哲夫著より)





古代律令国家

僧尼統治政策として「得度」「授戒」の制度があった

1.在家の優婆塞(うばそく。男性)優婆夷(うばい。女性)
2.「得度」を経て修行者になる沙弥、沙弥尼
3.具足戒を授かって「授戒」を経た僧(沙門)、尼(比丘尼)


しかし戒壇もいろいろあって

754 鑑真を招き、

東大寺、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇ができた

しかし最澄はそれらを小乗戒壇と否定。822年、最澄の死後に延暦寺に対して戒壇の勅許が下され、戒壇が建立された。大乗戒壇。
これらの戒壇制度は、松尾剛次(1999)によって中世でも機能していたことが指摘されている。

(しかし、制度は維持されていても、圧倒的に官僧以外の力が大きくなっていったことは間違いないだろうな)

その後の僧(?)の呼び名いろいろ

持経僧

経を常に持参して称え、山林霊場で厳しい修行をする出家者。在家者や国に公認されない私度僧(得度はしている)が多い。

聖 もともとは
1.儒教的な聖賢
2.非凡なもの
3.神聖ではかりしれないもの
4.行業や験力がすぐれた者

のことを言っていたが次第に

山岳で修行する僧、橋をかけたり、道路を修繕する修行僧、人里離れて隠遁する僧などを指すようになった。

その代表が空也。

沙弥・沙弥尼

僧に従って雑用を努めながら修行し、その後に戒律を授かって僧になる者(今なら小僧さんと呼ばれる人たちやろな)。
その後、
正規の手続きを経ない出家者は「私度の沙弥」
僧のみなりをしていても妻子があり、仕事(?!)についている者を「在家の沙弥」と呼んだ。

 なお、公的な僧の位階制度が整い、僧の寺院組織内での出世志向が強まった。その世俗的な風潮に嫌気がさして、寺を出ることを「出世間」と呼び、「出世間」した僧のことを「遁世僧」と呼んだ。

 この「寺院」というのは比叡山や高野山の正統的な大きなお寺を言うのだろうけど、結局、遁世しても出たところでご本人が(志向していなくても)祖師となり、新たな寺院、宗派を作ることになってしまっている(ってかそれ以外の方は歴史の闇に消えていき、歴史の中に残っているのは寺院、宗派を維持した人たちだけ、ということだろうけど)ってのは、人間ってそういうもんや、ってことか。





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2020年10月11日

インド、中国での浄土思想(「一遍 捨聖の思想」桜井哲夫著より)




まとめて1エントリーにしようと思いましたが、無理。

 少しずつのアップで。

 日本の仏教も元を辿れば中国へ、そしてインドへと遡れます。


Wikipdeiaより クシャーナ朝(クシャーナちょう、英: Kushan、中: 貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。

なお、クシャーナ朝で作られたコインの裏にはギリシア文字(!)が刻まれていた。

100頃 無量寿経 と 阿弥陀経 の原型ができた
阿弥陀仏、本願、信、念仏、浄土、往生 などの概念ができた

阿弥陀仏の元になった言葉

アミターユス(無量(限)の寿命をもつもの)
アミターバ (無料(限)の光明をもつもの)

起源の説
ゾロアスター教起源説
ヴェーダ神話起源説
仏教内神話起源説
叙事詩「マハーバラタ」起源説

300頃? 世親 

Wikipedia より
唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗摂論宗法相宗浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。
世親は仏滅後900年にプルシャプラ(現在のパキスタンペシャーワル)で生まれた

344〜413 鳩摩羅什
今の新疆ウイグル自治区出身
仏典を漢訳した
「浄土」の漢訳

476〜542 曇鸞

562〜645 道綽

602〜664 玄奘(650 に「漢訳阿弥陀経」を書いた)

613〜681 善導
中国では重視されていない。
学僧ではなく、説教師。
塔や寺の修理、経の書写などをし、謝礼を貰っていた。
「凡夫も念仏で往生できる」と説いた。

日本の聖みたいなものか。社会貢献活動をし、説法(今なら講演)をし、お金を集めていた。
ヨーロッパの音楽でも、昔は王侯貴族などの大スポンサーがいなければ食べていけなかったけれど、音楽が大衆的になり、少額を広く集める形になったことが思い出される。

posted by kingstone at 22:41| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする