歎異抄関連を本を久々に読みました。
結構新鮮な気持ちで読めたかな。
現在、日本では「私は無宗教です」という人が多い。これは明治国家が
「国家神道」という創唱宗教を作ろうとした→「(他の宗教の)信仰心や宗教心は個人の内面にとどめておくべきである」とした。→(そのうえで)「国家神道」は宗教ではなく「国家の掟」だとした→「国家神道」は「宗教」ではないことになった
というふうに論じてはる。そのせいで「私は○○宗(教)です」と表明しにくくした、ということかな?あくまでも内面に留めておくべきものだ、とされたから。
また明治初年の廃仏毀釈および財産没収はかなり徹底したものだったらしいし。(ただし、それは庶民の寺院への恨みも相当溜まっていたからかもしれない。桂米朝師匠の「三年酒」では檀家制度をたてに取る、嫌がられている寺(お坊さん)が出てくる)
蓮如が歎異抄を発見したけれど、教団に都合が悪いから禁書にした話は有名だけど、その「都合が悪い」ことの大きな理由のひとつが
「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」
だってのは、なるほどな、です。今までそこに気づいてなかった私はあほかいな、ですね。そりゃ教団経営の妨げになると考えても不思議はないわなあ・・・まあだからこそ魅力的な言葉なんだけど。
あと「悪人正機」だからわざと悪いことをしようというのは違うよ、というのは知っていたけれど、「悪人こそ救われるのならば、わざと悪いことをしよう」と言って悪人ぶる人に対し、「それは本願ぼこりと言うものだ」と批判する人も批判している、というのも面白い。
つまり「批判する人」は、「人間は善悪を選択できる」と考えている時点でおかしい、と。唯円は「善悪は選択できるのではなく、宿業で決まっているのだから」というわけ。
また似たような感覚の言葉として「煩悩具足の我ら」というのは「私にも煩悩がある」ということではなく「私が煩悩である」ということ。「煩悩」を所有していて、それを捨てたり消したりできるわけでないということ。
こういう考え方、好きだな。