仏教伝来については、私は538年(ごさんぱい)と覚えていたけれど、これも諸説あるそうで、
Wikipedia では、538年説、552年説が紹介されている。
この本では、538年には確かに仏像などは送られてきているが、あくまでも私的なものであり、私的なものならそれ以前にもあったであろうと。そして吉田一彦説の蘇我馬子の「法興寺(飛鳥寺)創建」の588年を国家としての仏教伝来の年と考える説も紹介されている。
う〜〜ん、「伝来」と「公伝」という言葉によっても変わってくるかな?
538年の時は、蘇我稲目が自分の邸宅に仏像を祀ったのだけど、その2年後(!)に疫病が流行り、物部守屋が「仏像(外国の信仰対象)を祀ったせいだ」と難癖をつけ、蘇我邸を焼き、仏像は破壊されたとのこと。天皇も黙認するしかなかったとか。(まあ当時の豪族の仲の悪さというか攻撃性ははんぱなく、だからこそ、後に「和をもって貴しとなし」なんてことをわざわざ宣言しなけりゃならなかったんだよね)
でも物部も後年、寺を作っていたらしい。
なお、538年頃、司馬達等の娘、嶋が高句麗僧恵便に従い出家・得度し「善信尼」となり、百済に行って授戒し、帰国した。
百済にまで行ってたのは知らなかったな。
629〜700 導昭 唐に留学。玄奘のもとで法相唯識、禅観を学ぶ。
709〜? 智光(三論宗)「無量寿経論釈」を著す。世親の「浄土論」の注釈書。
741 聖武天皇が国分僧寺、国分尼寺の建立を発願。
その総国分寺である東大寺の大仏が盧遮那仏(華厳経の仏)だったため、華厳宗ができる。
それまでの三論宗、法相宗に加えて華厳宗、そして鑑真がやって来ると律宗が成立した。
この時期に浄土の教えが広がっていく。その理由として
「『我欲(所有欲)と支配の罪業意識』が官僚と貴族社会に広がったから」
という説が紹介されているのだけれど、そんな「自分の罪」を感じるような人たちだったのだろうか・・・
その後には「中・下級貴族のついてない思い」みたいなことが書かれてて、そっちのほうはわかるような気がするのだけれど。で、だから、来世は極楽に、みたいな。
posted by kingstone at 11:49|
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