私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2020年10月11日

インド、中国での浄土思想(「一遍 捨聖の思想」桜井哲夫著より)




まとめて1エントリーにしようと思いましたが、無理。

 少しずつのアップで。

 日本の仏教も元を辿れば中国へ、そしてインドへと遡れます。


Wikipdeiaより クシャーナ朝(クシャーナちょう、英: Kushan、中: 貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。

なお、クシャーナ朝で作られたコインの裏にはギリシア文字(!)が刻まれていた。

100頃 無量寿経 と 阿弥陀経 の原型ができた
阿弥陀仏、本願、信、念仏、浄土、往生 などの概念ができた

阿弥陀仏の元になった言葉

アミターユス(無量(限)の寿命をもつもの)
アミターバ (無料(限)の光明をもつもの)

起源の説
ゾロアスター教起源説
ヴェーダ神話起源説
仏教内神話起源説
叙事詩「マハーバラタ」起源説

300頃? 世親 

Wikipedia より
唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、地論宗摂論宗法相宗浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。
世親は仏滅後900年にプルシャプラ(現在のパキスタンペシャーワル)で生まれた

344〜413 鳩摩羅什
今の新疆ウイグル自治区出身
仏典を漢訳した
「浄土」の漢訳

476〜542 曇鸞

562〜645 道綽

602〜664 玄奘(650 に「漢訳阿弥陀経」を書いた)

613〜681 善導
中国では重視されていない。
学僧ではなく、説教師。
塔や寺の修理、経の書写などをし、謝礼を貰っていた。
「凡夫も念仏で往生できる」と説いた。

日本の聖みたいなものか。社会貢献活動をし、説法(今なら講演)をし、お金を集めていた。
ヨーロッパの音楽でも、昔は王侯貴族などの大スポンサーがいなければ食べていけなかったけれど、音楽が大衆的になり、少額を広く集める形になったことが思い出される。

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2020年09月01日

死してなお踊れ 一遍上人伝 栗原康著




これは評伝というか、歴史小説のジャンルになるのかな?

著者は他に

「大杉栄伝 永遠のアナキズム」
「村に日をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝」
「働かないでたらふく食べたい「生の負債」からの解放宣言」
「アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ」

などの著書があり、アナキストと自己規定してはります。

なるほど、「組織(寺とか教団とか)」を作らないように、作らないようにと意志してきたであろう一遍上人に興味を持ちはるのもむべなるかな、ということなのかも。

まあ、でも一遍上人は、既にある寺院や神社は否定してはいませんけど。

しかし、当時はまったくもっての神仏習合だったんですね。
上人もたくさんの神社を回ってはる。


年表
( )内は数えの年齢

1239(1)  一遍生まれる。松山(道後)
1248(10) 母死亡。一遍出家する。名前は随縁。
1151(13) 太宰府の浄土宗西山派の聖達(しょうたつ)に師事。
1263(25) 還俗し故郷に戻る。奥さん二人(妻妾同居)
1271(33) 親類に殺されかけ返り討ちにする。
1273(35) 山岳修行(半年)
1274(36)
遊行の旅へ。家族も捨てたつもりだったが、妻子(超一、超二)もついて来る。
元寇(文永の役)の戦場に行き、ケガ人の治療にあたった。(戦国時代にも時宗僧侶が赤十字みたいな働きをしていたのはそのせいか)
治療については、温泉施設も作っている。道後温泉の生まれだから詳しかったのか。
1279(41) 自然発生的に踊り念仏が始まる
1282(44)
鎌倉を目指すが北条時宗一行に止められる。鎌倉の周囲で踊る。
1283(45)
尾張の甚目寺でたくさんの喜捨が届いたので炊き出しを始める。これより炊き出しが慣例となる。美濃から近江を目指すと、東海道の悪党たちが「一遍上人とそのお供をする人たちに迷惑をかけてはいけません。従わなければ殺します」という高札を立てたので、以後は安全に移動できるようになった。
1289(51) 兵庫の津(大和田泊)の観音堂(現真光寺)にて死去。

 真光寺には行ったことがあります。

なお、教信寺にも行かれたとか。教信上人(786生まれ)を崇敬してはったとか。

ふむ。この記事に書いてある生まれ年と、本に書いてある生まれ年が違いますね。
なお、教信寺にあった説明では上人のことを

"教信の活動はひたすら念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをする"

と書いてありましたが、この本によると、運送業でお金を稼ぎながら、念仏を広めた(半僧半俗)ということみたいね。そのほうが納得できるな。

一遍上人は空也上人も崇敬していたのですが、空也上人も踊りながら念仏をしていたらしいです。それを六斎念仏と言うとか。

Wikipedia によると「踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない」だって。

 しかし、途中からは有名になってたくさんの喜捨がもらえるようになり、一緒に移動する集団も食べていけるようになったろうけど、最初はどうだったんだろう。最初の頃、九州を遊行している時は半裸で下にだけボロボロの布が巻き付いている状態だったそうだけど。

 ということは、故郷からの仕送り(領地からの上がり)が送られているわけでもなく、本当に乞食僧として活動してはったんやろな。(西行法師の場合は領地からの上がりで生活していたのじゃないかな)


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2020年06月16日

「お坊さん」の日本史 松尾剛次著





※人名の前の数字は生まれ年

574 聖徳太子

574 善信尼(日本人初の出家者。渡来人の娘。
       まあ日本人という概念は無かったろうけど)
 加古川で還俗していた(たぶんばれると殺されるからでは)高麗僧恵便を師として584年得度。この恵便を迎えに行ったのが聖徳太子で、その地に鶴林寺を建てた、と伝えられる。
 翌585年(敏達天皇14年)3月、物部守屋による廃仏運動により法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。後に百済に留学もしているし、お金は実家か朝廷から出ていたか。

645 大化の改新 僧の官僧化

官僧 国家公務員(定員を厳しく守る)
   (朝廷を官として)国家のための法会が仕事。
   そのため穢れを避け、死とは関わらない。
   衣は平安末期には白。

668 行基
   官僧から離脱
   天皇の許可なく門下を得度
   私度僧集団(行基集団)を作る
   のちに大仏造営に協力し官僧のトップとなる
   (一時は遁世僧だよな)

701 「僧尼令」で官僧を規定

754 鑑真が東大寺に戒壇を作る

761 筑前観世音寺、下野薬師寺にも戒壇ができる
   国立三戒壇(尼は受戒できなかった)

767 最澄

774 空海

822 比叡山の戒壇が勅許(最澄死後)

822 日本霊異記。
   中で、7世紀末の役の小角が仏教と関連づけられている
   修験道の祖と見られた

破戒僧増加(真弟子というのは父が地位ある僧。つまり妻みたいな人がいた)

903 空也
   川に橋をかける。死体を集め回向する。
   938から京都市中で乞食をする。
   948比叡山で受戒
   とちゅうまでは私度僧?

912 良源(比叡山にいたが、得度できず薬師寺(法相宗)で得度)

967 「延喜式」で官僧を規定

鎌倉仏教の遁世僧
各宗派の祖師は、多くはもともと官僧だったが、義務の法会に応召しないなど、官僧の義務を果たさなくなり、「個人」(現在言うところの個人とは異なるので、著者は「個人」と書く)の救済に関わる。
基本的な収入は布施?
衣は黒。

1118 西行
    祖師ではないが、当時の世の中で絶大な人気があった。
    この人は領地からの上がりがあったんだろうな。
    しかし高野聖のように勧進もしている。
    勧進って、集まったお金の一部を手数料として取れるんだろうか?
    って、多くの高野聖は取ってたよね?

1133 法然

1141 栄西
    晩年に官僧となる。

1173 明恵
    新しい浄土信仰の流行に対して旧仏教側から反論。
    プロテスタントの宗教改革に対する、
    カトリックの「対抗宗教改革(反宗教改革)」
    運動みたいなもんか?
    しかし国家的法会をブッチしたので遁世僧の分類へ
    
1173 親鸞

1200 道元
    女性の出家に尽力した
    (映画「禅」でも内田有紀が出家してた。
     道元役は中村勘九郎(いだてんの金栗役も))

1201 叡尊
    父は興福寺の僧(つまり破戒僧)
    西大寺(官僧も遁世僧も共住していた。黒白両住)
    を拠点として、造寺、造物、橋をかける、ハンセン病者施設運営
    など民衆救済活動をしていた。

1217 忍性
    叡尊の弟子
    ハンセン病者施設運営

1222 日蓮

1239 一遍
    一度も官僧になったことなし

葬式の一般化。(官僧ではできなかった。遁世僧だからできた)
著者も葬式、弔いの価値を書いておられるが、私もそこは大事だと思う。葬式仏教という言葉は悪い意味で使われるけれど、葬式、弔いというのはすごく大事だと思う。

1275 夢窓疎石
    室町幕府の「官僧」

著者は朝廷の国家公務員としては官僧という名前を使い、
幕府の公務員としては「官僧」という名前を使う。

1278 文観
    後醍醐天皇の側近

1394 一休宗純

1407 日親
    幕府に建白し続けたので、焼けた鍋を被らされた。
    それ以外にも下記のような拷問をされた。
    「陰茎に竹串を突き刺されたり舌先を切り取られる」

1415 蓮如

1569 崇伝
    徳川幕府の「官僧」

15?? 天海
    徳川幕府の「官僧」

1573 沢庵
    1629 紫衣事件で出羽上山に流される
    しかし、これで人気沸騰
    1632 許され、徳川家光に慕われ、品川東海寺を与えられる

この紫衣事件が面白い。
当時、幕府は寺院を統制を厳しくしていた。
教義の研究などに励み、僧兵を持つようなことの無いようにさせようとし、大徳寺に対しては大徳寺諸法度で、いわばカリキュラムにも口を出した。

・修行30年
・1700の公案をマスター


など5か条を決めた。
それを沢庵は無視し、かつ反論した。

「悟りは修行の年数やマスターした公案の数によらない」

なんだか、現在のいろいろな資格や免許に関する普遍的な論点が出てるな。

宗門改と檀家制度の成立

1579 鈴木正三
    関ヶ原、大阪夏の陣にも出陣した武士
    42歳で出家。
    禅を平易に説いた。
    (名前から明治の人だと思ってた・・・)

1622 盤珪永琢(ばんけいようたく)
    播磨出身。浜田(姫路)龍門寺を中心に教化。

???? 真念
    四国遍路を50年間に22度もし、ガイドブックを出版。
    (伊勢参りもだけど、余暇活動の側面も大きいよね)
    
1685 白隠慧鶴

修験道の展開
    (これって、農閑期に山登り、という余暇活動の面も大きいよね)


排仏論者
1561 藤原惺窩
1715 富永仲基
1730 本居宣長
1748 山形蟠桃
1776 平田篤胤

 このあたり、反仏教思想、神道講釈の広がりについては、米朝師匠の「三年酒」でも出てくる。

 もちろん仏教の説教もはやり、いずれも木戸銭をとったということだから、有料の講演会で、「官給」「お布施」以外に講演会でお金を集める、という手段が出てきてる。

1858 井上円了
    東本願寺の国内留学生として東大に入り、後に東洋大学を作る

1863 清沢満之
    東本願寺の育英高校から東大へ
    「歎異抄」の再発見
    (結核で校長職をやめたとき、西垂水で療養してたって)

1868 神仏分離令 排仏毀釈

1870 鈴木大拙
    海外への仏教思想紹介

1871 上げ地令(幕府の与えた土地の没収令)
    宗門人別、寺請制度の廃止
    「官僧」がなくなり、収入源はお布施のみになる

1872 僧侶妻帯の公認

1873 キリスト教禁制撤廃

仏教系新宗教。日蓮宗系が多い。
国柱会。創価学会。霊友会。立正佼成会など。

   
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2017年11月19日

映画「地の塩 山室軍平」



映画「地の塩 山室軍平」


 京都の、近鉄東寺駅を降りてすぐのところにある、京都みなみ会館まで、映画「地の塩 山室軍平」を見に行って来ました。

 京都 みなみ会館
みなみ.JPG



 もう「大げさな芝居がかり」「キチガイ」「とっても変な人」(悪口じゃない。褒めてる)です。まあ実際の人物像とはまた違うかもしれませんが、十分納得できます。

 映画そのものは、短いエピソードの連続でトントンと進んでいきます。



Wikipedia から引用して簡単に説明すると

山室軍平(1872年 - 1940年)は日本の宗教家。説教者。日本人初の救世軍士官(=牧師)で日本人初の日本軍国司令官(「日本軍国初代司令官」ではない)。最終階級は中将[4][5]。岡山県阿哲郡哲多町(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。

 パンフレットには賀川豊彦と一緒に写った写真もありました。
 賀川さんも伝道を始めた時、「キチガイ」と言われてたもんな。



 でもって、アッシジの聖フランシスコだってそんな方だったのだろうと思う。


 山室さんは、岡山の山間部に生まれ、家が貧しくて(しかし、映画の中では結構大きな家に住んでいたが・・・これは藁葺きの家などで残っているのは、かつて裕福だった家しか残ってないだろうから、必然的に大きな家になってしまうのかな)、質屋の叔父さんのところに養子に出される。

 しかし14歳で「もっと勉強がしたい」と家出して東京に行き、活版工となる。そういうことができた時代なんや・・・今、中二か中三で家出して、身元保証人も無く、定職につき、また私塾みたいなものだろうけれど、夜、勉強に行けるって、すごいことだな。

 そこで教会に行き始め、もっと学びたいと1889年に同志社に入る。最晩年の新島襄(1890年死去)の講義も聞いていた。しかしお金が無く、本科には行けないなあ、と思っていたら友人である吉田清太郎が自分の入学金・学費を山室のために流用してくれた。

 で、吉田は食費も無くなり、死んだ猫(生きてるのを殺したんじゃないからね!)を持ち帰り、鍋にして食べたりしていた。

 ホームページに吉田さんは「松山では松山女学校の経営危機を再三にわたって救い」とあるから、その後は実業でも活躍されたのかな。後年、彼も救世軍に入る。

 しかし、いろんな人が(山室も)、誰かのためにその時手持ちのお金(多い少ないはある。小銭のみしか財布に入っていないとか)を他人のためにポンと出す様子が描写されます。まあ、当時でも珍しいことではあったと思いますが。

 同志社では、当時、近代科学の発展の影響がキリスト教にも及び、聖書を客観的に検討しようとする自由主義神学(これもリベラルと呼ぶそう)の影響が大きくなり1894年に山室さんは同志社を去ったそう。映画の中では「ダーウィンが・・・」とかいう会話がされていた。しかし・・・ダーウィンは科学的でもこのあたりで会話されていたのは、社会的ダーウィニズムじゃないかなあ。全然科学的ではなさそうな・・・

 まあ、私自身、聖書の「奇跡」をそのまま信じるメンタリティはなく、例えば「山上の垂訓」で5つのパンがたくさんの聴衆に行き渡ったというのは、映画の中で山室と、売り飛ばされそうになったのを助けられた娘が、おにぎりを分け合ったシーンのようなものじゃないか、と思ってしまうほうではあるけど。

 とにかく山室さんは「そんな議論より実践を」というタイプだったわけね。

 これは、今でも研究者と実践家との違いとして出てくるものかもしれない。

 同志社を去った後、高梁の教会での伝道や、岡山の石井十次の孤児救済運動を手伝ったりしてたのが、石井が「救世軍(The Salvation Army)というのがイギリスから来たから一度見て来てくれないか」とお願いされ、行ってみたらぴったり合って、熱心に参加するようになり、初の日本人士官となられたと。

 なお、救世軍は町に出て、太鼓、金管楽器、歌などで伝道するので、「法華と耶蘇のあいのこ」と周囲からは呼ばれていたとのこと。

 映画のエピソードで集会の時、下足番をしているとこに旧知の友人が気づき「なんで君が下足番なんてやってるんだ?」と尋ねるシーンがあった。セリフは忘れたけど「神のために喜んでやってるよ」みたいな話。これって『典座教訓』と同じだよね。

 なお、山室さんのやった仕事の主なものの一覧がパンフレットにあった。

著述・出版:「ときのこゑ」編集、「平民の福音」、「社会廓清論丿他多数
自由廃娼運動と女性支援:醜業婦救済所(東京婦人ホーム)、女中寄宿舎、生業資金
失業労働対策事業
犯罪者更生社会復帰支援:出獄人救済所(救世軍労作館)、希望館(軽犯罪者の復帰施設大阪)
医療保険事業:救世軍病院、結核療養所
貧窮者事業:歳末慈善鍋
災害支援事業:東北凶作地子女救護運動関東大震災への支援
セツルメント事業:大学殖民館、社会殖民部、部落解放運動、愛隣館
相談事業:身の上相談事業
児童虐待防止運動▷1933児童虐待防止法へ「芥種寮」開設

すげえ。
やってることの範囲が広い・・・

 で、奥様も同士として活動されてたみたい。
 しかし・・・士族の娘になるんだけど、明治時代、恋愛で結婚するってのは周囲からはものすごく変なことと思われたかもしれないな。(それこそ貧しい庶民はその限りにあらずだったみたいだけど)









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2017年10月01日

仏像に恋して 真船きょうこ著




真船きょうこさんの著書

 上のは文庫ですが、私は新人物往来社のA5版の本を買いました。
 こういうエッセイ漫画は大きい版のほうがいいっすよね。
 西原理恵子さんの本で痛感してます。

またネットでほとんど無料で見ることもできるみたい。



 この本、読んで、興福寺の阿修羅像って、特別な時だけでなくいつ行っても見ることができるのか、とか、六波羅蜜寺に行って空也上人像見たいなあ(昔、京都であった仏像展で見たことはある)、とかいろいろ思いました。

 あと、園城寺を作り天台宗中興の祖となった円珍さんって、とんがり頭(ビリケン頭)してたんだな、とか知ることができたのも良かった。

 ガンダムおたくの彼氏とは結婚されたのかな?
 気にかかる・・・

 ブログの「あけましておめでとうございます」というエントリにのってる年賀状にはご夫婦の顔が描かれてますが・・・






posted by kingstone at 19:21| Comment(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする