※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2025年03月23日

『仏教を『経営』する』蔵元龍介著




 この画像を貼り付けようとして、これは kindle 版ですが、紙のほうでは金額が2倍に達しようかというのがずらずら出てきました。

 2025年2月25日に出たばかりの本なのですが・・・

 それで売れると転売ヤーさんが思ってる?

 
 つかみがすごくいいな。

 著者がミャンマーの上座部仏教の寺タータナ寺院で出家者として托鉢に出た時。いつも布施をしてくれる老婆がぬかるんでいる道に跪いてただ礼拝しているだけだった(つまり食べるものも無かった)。そのことを師僧に相談すると

「出家者としてやるべきことは、あのおばあさんの肩を抱いてあげることではない。自分の背中を通して、世俗的な幸せとは違う、超俗的な幸せを示してあげなければいけない」

 僧が律を守り、出家修行をすることこそが、在家の人々の幸せにつながる、という考え方。

 そして、その対極(?)にあるのが、同じくミャンマーのダバワ瞑想センター。ここには病に倒れた人、薬物依存者、ホームレスその他その他の人がボランティアとともに過ごす。ボランティアは「善行」という原理にそって行動する。また瞑想もおおいに勧められる。

 真言律宗の僧侶でかつ武道家であった松波龍源師が、蔵元龍介さんとも話し合い、檀家を持たない実験的な寺として始めたのが寳幢寺(ほうどうじ)

 いずれの寺も檀家は持たず布施で運営されている。そのあたりが題名にある『経営』ということに関わってくる。

 まずミャンマーの上座部仏教では律をしっかり守れば出家者は「お金に触れてもいけない」それを解決する手段として「浄人」という在家者が金銭を管理するシステムがある。

 そしてこの「律をしっかり守る」というのは人間が生きていれば本来矛盾するというか、葛藤するものであり、古代インドでも仏滅100年頃に十事論争が起き、撤廃緩和を求める修正派と、律不可侵の原則を主張する保守派の論争の中で

修正派→大衆部→大乗仏教
保守派→上座部

に分裂した(根本分裂)ということらしい。

 ところでもともとのミャンマー仏教ではかつては葬儀は行わない。遺体も埋めたり焼いたりはあるけれど、何かそれっきりだったみたい。これは輪廻転生するから古い体には意味は無い、ということだろうか?

 しかし、だんだん葬儀もされるようになり、1990年頃からの葬儀費用の高騰を受けて葬儀支援協会ができた、と。

 日本では資料としてわかっているのは、貴族以外では、平安時代に空也が野原に打ち捨てられていた死骸を集めては1か所に集め、油を注いで焼き、阿彌陀佛の名を唱えて回向していたということだけど。

 で、鎌倉時代の曹洞宗あたりから葬儀の形がしっかりできてきた、というのを読んだことがあります。私などは「葬式仏教」と揶揄されることはあるけれど、葬儀や回向ってのは大事だと思うのだけどね。

 またミャンマーでは社会福祉も低調だったのが、福祉ブームが起こってきた、と。その中で出てきたのがダバワ瞑想センターのような福祉に力を入れる仏教組織なのかな。(そして仏教ナショナリズムも高揚し、ロヒンギャ問題がクローズアップされる)

 寺院経営については、ミャンマーの2寺とも在家組織が運営・管理していて、やる気になれば住職も罷免できる。これは日本でも「檀家組織」があるけれど、実質は寺の中で全てやっているな。

 なお寳幢寺では「日本仏教徒協会」というのを作って、そこが運営していく形をとっているが、まだ道半ばであるらしい。

 発足当時に「布施」だけでやっていこうとしたら、大赤字でえらいこっちゃ状態。説法の会をしても10人、1万円集まれば良いところで、中には「檸檬」が1個入っていたこともあったとか。

  しかし似たような名前の団体がいっぱいある。

全日本仏教会は既成仏教宗派の大同団結した老舗みたい。

日本仏教協会は千原せいじが得度したところだけど、なんかよくわからない・・・

 で、ミャンマーの福祉と言えば、岸田奈美さんの
記事は2019年に書かれているが、写真のキャプションには 2016年11月とある。

にも、この話は「ミャンマーで、オカンがぬすまれた」という題で載ってます。
 この頃って民政の年代だな。
によると
1948年〜1962年議会制民主主義期
(1958年〜1962年軍事クーデター)
1962年〜1988年社会主義的軍事政権
(1988年軍事クーデター)
1988年〜2011年直接軍事政権
2011年〜2021年民政移管
(2016年スーチー政権発足)
(2021年軍事クーデター)
2021年〜現在直接軍事政権
となっている。
 岸田さんが行かれたのは、民政の時代だな。

 基本的にミャンマーの僧(仏教)は律に関心があり、政治にはあまり関心がなかったのだけど


「僧侶がデモをしたので、僧衣の色から「サフラン革命」とも呼ばれる」

 この時、日本人ジャーナリストも射殺されている。

 なんだかんだありながら、岸田さんが行かれた時代は「自由」ではあったのだろうな。


 私も、「行きつけの寺」があれば良いな、とは思っているのですが・・・





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2024年12月14日

『宗教の日本史』本郷和人著




 わりとするする読めました。

 私だと「いわゆる日本教」と言っちゃう「なんでもあり」な多神教の様子をいろいろと語ってくださってるというか。

 もともとが(明治の国策の国家神道ではなく)自然の何やかやに神性を感じる神道があり、他の宗教が入って来た時も比較的摩擦なく受け入れた、と。

 私なぞ、仏教が伝来した時に、蘇我氏と物部氏が戦い、高麗僧恵便が還俗して加古川に隠れ住んでいたり、善信尼が裸にされて鞭打たれたりして、たいへんだったろうな、と思うけど、確かにキリスト教がローマに弾圧されてたとか、現在でも他の宗教の仏像を破壊したりする人々がいることを考えれば、まだましだったんだろうな。


 あと面白かったのは

「豊臣秀吉は伴天連追放令で、心の中での信仰は問わないから、表向きの信仰は捨てよ、と命じた」

「最澄はいわば官費留学生でお金も余裕も無かったけれど、空海は私費留学生でお金もたくさんあった」

「明治政府は神仏分離令を出しただけで、廃仏毀釈は地域の人々が勝手にやった」

とかいうところ。

 最後のなんか、歴史を学んでいる人には常識かもしれませんが、私はわかってなかった。

 なるほどなあ、です。

 まあ、それだけ恨みをかっていた場合もある、ってことでしょうが。

 落語の『三年酒』 にもそんな描写が出てきます。


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2024年05月04日

平安時代にうち棄てられた死者は回向されていたのか



 ドラマ「光る君へ」で道端に死骸がごろごろしていたり、悲田院でたくさんの人が死んでいく様子が描かれています。

 では、そのご遺体はどうされていたのだろう。

 今の「光る君へ」は990年代。2024年4月28日に放映された、第17回に「長徳」という元号は995年。

 当時の仏教って、官僧による鎮護護国で、浄土へ行くように、と今際のきわの仏事などしてもらえるのも高位の人たちだけだったろうし。

 道端に転がるご遺体を供養したり、庶民を弔うということはなかったのではないか。そして鎌倉時代の遁世僧あたりから始まったかなと思って、調べてみました。
 
 すると「『お坊さん』の日本史」松尾剛次著(2002)に

P70  空也は、延喜3(903)年の生まれで、若い頃から五畿七道をめぐり、川には橋を架け、道路の整備を行い、野原に棄てられた死骸を見つけては、一か所に集め、油を注いで焼き、阿弥陀仏のなを称えて回向したといいます。

というのを見つけました。


 なお、空也は私度僧だったのですが、活動が認められ、天暦2(948)年に延暦寺で戎を受けています。

 空也は口から六体の仏像の形で「南無阿弥陀仏」を称えて遊行している立像が有名ですね。




「空間としての六波羅」
高橋慎一朗(1992)『史学雑誌』101 巻 6 号 p. 1077-1113,1234

によると

963年 空也、六波羅の地に西光寺(六波羅蜜寺の前身)を創建。

ということですから、「光る君へ」の時代には、西光寺(すでに六波羅蜜寺という名前に変わっていたかもしれない)の僧が回向していた可能性はありますね。

 なお、六波羅は「光る君へ」第9回で直秀が殺され、道長とまひろが埋めた鳥野辺に隣接し、冥界への出入り口と考えられていたということです。

 また「光る君へ」関連で言うと藤原実資の「小右記」万寿4(1027)年12月4日条に

「以別納所米給貧者、(中略)令中悲田病者并六波羅蜜坂下之者数悲田35人、六波羅蜜19人」

とあるそうです。(読み方、音は全然わからないけれど、意味はわかるな)

 で、今調べてみたら、鳥野辺って今の大谷大谷本廟なんですね・・・


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2024年04月27日

『ブッダという男ー初期仏典を読みとく』清水俊史著




『ブッダという男ー初期仏典を読みとく』清水俊史著
2023, 12, 10 ちくま新書

 「あとがき」に任期付き研究者であった頃、学会の権威から難詰されて筆を折ったことを書いていて、すごく話題になった本。

 まあある意味、邪な興味を持って購入したのですが、内容も面白かったです。

 宗教始祖はいずれにしても、神話的なエピソードに包まれており、しかし初期経典(神話)を批判的に読み「歴史的に(政治的に、ではなく)正しい人物像」を描き出そうとする試み。

 で、最近よく言われる

・ブッダは平和主義者
・ブッダは業と輪廻を否定した
・ブッダは階級差別を否定した
・ブッダは男女平等を主張した

などの言説を「そんなことない」とブッタ切っていく(と言うのは言い過ぎか・・・)。

 そりゃ2500年前のインドの人で、当時の常識であるバラモン教の世の中で、「そうじゃない」という別の道を指し示したのだけれど、当時の常識を踏まえた上での、当時の新しい言説なわけで、今の価値観とはまったく違って当然。

 それを、今の「私の願い」で曲解すること、特に今の価値観から見て「いい人」として見てしまうことへの諌めの書か。

 実際、ジェンダーの問題などにしても、私が子どもの頃、青年期の常識と、現在の世の中の常識はすごく変わってきて、それにつれて私の考えも変化してきているし。

 たぶん、私が子どもの頃って今よりめちゃ女性差別者だった。実のところ現在でもやはり無意識に差別している点はいっぱいあると思うけどね。

 しかし、「歴史学」か「宗教学」か「宗教(そして運動)」かとなった時、正確性より「思い込み」「意味付け」が大事になることもあるよな。
 本書でもインドでのアンベードカルの仏教復興運動の意義についても触れられている。

 で、また、現在日本にあるほとんどの仏教宗派・仏教者はそれぞれの祖師の「こうであるはず、こうであってほしい」ブッダ像・祖師像が核となっていて、それは「宗教(そして運動)」と見る時、別に「間違い」ってわけのもんでもないだろうし。

 ある意味「世につれ」変化していくのは良いことなのかもしれない。

 そういう意味で、最近「イスラームは人殺しを肯定する宗教」という誹りを見ることも増えたけれど、キリスト教も神はめちゃめちゃ人は殺しているし、キリスト教に従って(?)十字軍なんてのもやってるし、確か仏教過激派も人を殺しているはず。日本だったらオウム真理教もあったし。そういう意味では各宗教とも「同じ」なんじゃないかな。

 それら各宗教を信じている人が、「人を殺したい」という気持ちを発現させない、「他宗教の人ともうまくやっていきたい」と思える環境を作ることが大事なんじゃないかな。(もちろん、そのためには公権力に出張ってきてもらわないこともあるだろう)

 それから面白かったところ。

 「無記」と言って、ブッダが質問に答えなかった記述が古い経に見られるのだけど、それは

 無記とは、「形而上学的な問題について沈黙を守った」というものではなく、「異教徒によって間違った立てられ方をした質問に対して、ブッダは回答しなかった」というだけのものである。無記が現れる初期仏典においては、「異教徒が投げかけた質問に対しブッダは沈黙をもって対応し、その後、無我などの教えを説く」という流れが基本であることを考慮すべきである。

ってことで、何か「スルー」に近いのかなと思いました。

 またブッダは現世の身分は「あるもの」と認めていたみたいなんだけど、バラモン教ならそれを「生まれ」のせいにしていたのを、「行い」によって人の貴賤が決まるとした。

 ここでの「行い」とは生業としての行為のみならず、未来に何かの果報を生み出す業(カルマ)が含意される。四つの階級のいずれに属していても、善を行えば世間から称賛され、来世では楽の享受する。逆に、どの階級であっても、悪を犯せば世間から疎まれ、さらには来世では苦を忍受する。

「業」って言葉、「業による因果応報」とか「業病」とか何か悪い意味で使われがちなものだけど、そのものには善悪とか無く、「行動」なわけね。

 なんか、それが ABA の ABC分析において、B(Behavior:行動) をついつい「問題となる行動」ばかりを当てはめがちになる(本当は、善い行動も、良くも悪くも無い行動も B に入る)と何か似てるなあ、と興味深かったです。

posted by kingstone at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月24日

「禪における乞食の意義」近藤文剛



もともと「乞食」には興味があって、いろいろ検索していたら、こんなの見つけました。

近藤文剛(1960)『印度學佛教學研究』Vol.8, 2, 666-671

いや、しかし「禪」とあるように、漢字が旧字(?)で書かれており、漢文も出てきてちんぷんかんぷんで、まともに読み込めてはいませんが、いろいろ面白かったです。

長阿含第十一なんとか経(いわゆる阿含経のうちなのかな? Wikipedia 見るとそうみたい)に

「世尊は着衣持鉢し、なんとか城に入りて食を乞う」

という文言があるので、シャカ自ら乞食をしており、比丘の日常作法として行われていた、と。

そして菩薩の乞食の十事として、いろいろ書かれているのだけど、その五に、乞食で集めた分配方法が書かれていて

1分は同梵者(一緒に托鉢した人?同僚?)に
1分は貧窮の人に
1分は悪趣の人(現世で悪事を働いて、死後苦悩の世界にいる人)に
1分は自ら食べる

となっているそう。(ちゃんと読めてるかどうかわからん)



そしてインドでは比丘の生活方法として乞食だけが唯一のものとされていた。

ところが仏教が中国に渡り、特に中国禅六祖慧能以後、百丈懐海和尚の

「一日作さざれば、一日食わず」の言葉に代表される作務生活、すなわち自活の重視となっていく。

(なお、この「一日作さざれば、一日食わず」は「働かざる者食うべからず」みたいに使われて、嫌な言葉だなあと思っていたけれど、Wikipedia を見ると、あくまでも自分自身を律している言葉なんだな。他人に向かって言っているかどうかはわからない)

まあ大きな組織を維持しようと思えばそうなっていくか・・・

タイやミャンマーではどうなんだろう?

ただ静かに座る  → 静中の工夫
作務・行脚・遊山 → 動中の工夫

つまり中国禅では道中の工夫もおおいに重要視されるようになったと。

なお、行脚と遊山が別れているのはどこが違うんだろうと調べてみたら、

行脚:修行のために歩き回ること(師を求めていろいろなところに行くことだろうな)
遊山:悟りを開いてから、山水の美の中で美しい景色を楽しみ、悠々自適の生活を送ること

という違いがあるらしい。

そして百丈和尚の作った「百条清規」に乞食作法が書かれている。
(清規というのは、寺の生活の決まり事。ただし、百条清規そのものは、散逸していて断片のみある)

で、そういったものが日本にも流れてきて、根付いていった。

清規 を見ると、有名な典座教訓は永平清規の中に書かれているって。

聖徳太子が悲田院を建立した時、乞食の行を徳としたので、かえって弊害を生じ・・・とあるからまあ、周囲を困らせる(あるいは堕落したと見られる)人が出たんだろうな。そして官許を得た僧でない人たちもいたと。

(しかし、これって、例えばヨーロッパや中近東の修道院が粗食と言われながらも、実はその周囲の地域の人の食うや食わずの生活から見たら安定して食っていける場所だったみたいに、食えない人がいっぱいいたからだろうな。僧集団の中にもたくさんそう人がいたのじゃないか)

時宗 → 遊行上人(これはもう乞食というか、地元の人に食物を頂くことでしか続けられなかったろう)

徳川時代の普化宗 → 虚無僧で有名

乞食桃水(桃水雲渓) → 乞食の精神みたいなものを代表させた?

白隠禅師 → 修行面に重きを置いた










posted by kingstone at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする