※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2015年06月08日

その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省

 朝日新聞記事

その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省

 これは国立大学の話なわけで、私立大学は関係ないのかな?
 それとも助成金のからみで関係してくるのだろうか?

「国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙い」

っていうことで、まあいわば「実学」へのシフトってことだろうな。また以前から話題になってる「高等教育」の「専門学校化」みたいな文脈ともあってるわな。

 ただ、私のTwitterのタイムラインでもちらっと見かけたのだけど、「選択と集中」と言っても、学問分野で「お上」が判断してやってきたことってたいてい失敗してきたんじゃなかろうか・・・本当に「市場に任せる」にしたほうが・・・

 で、ひょっとしたら、昔から大学って「実学」を学ぶ所で、しかしそうしてるつもりがどうやっても外れていく人たちがいて、その人たちが新たな分野を切り開いて来たんじゃなかろうか・・・だからある意味、文部科学省が何をどう決定しようがいいのかもしれない、とか思ってしまう。

 佐藤優さんが

「神学部とは何か 非キリスト教徒にとっての神学入門」

の中で「神学とは虚学である」と書いてはり、神学から見れば哲学ですら「実学」であるそうだけど、ある時代には神学は立身出世のための、教会を運営していくための、「実学」だったんじゃないかなあ・・・で、そこからいろんな学問が派生していったんじゃないのかな?

 東京大学は、たぶん「暦」を作るための「天文方」が一つの起源なわけで・・・
 昌平坂学問所は、何だ?まあ統治の思想を作るところか?

 たぶん「立身出世のための機関」としては、一定の役割を果たしてきたと思うのだけど、さてしかし、もう今は「行けば立身出世が保証されている」わけでないというのは、実は昔からなのかもしれない・・・

 世界大恐慌の余波ではあるけど、

「大学は出たけれど」

は1929年の小津安二郎の映画。で、映画になる前からこの言葉はあったのだろうしね。

posted by kingstone at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

「成績の悪い公立学校は閉鎖」という記事から

JBPRESSの
「全米に広がる「成績の悪い公立学校は閉鎖」の波先生も事務員も解雇、生徒はホームスクールへ」
という記事から

 う〜〜ん、私自身、あまり「学校」という場にこだわりすぎる必要は無い、と思ってるし「ホームスクール」だっておおいにアリとは思ってるけど、これは困るんじゃないか・・・引用すると

 2月初旬、米国ペンシルベニア州フィラデルフィアに住む知人から1通のメールを受け取った。
 そこにはフィラデルフィア市内の公立校が続々と閉鎖されている事実が語られていた。日本でも少子化の影響で、公立小中学校の併合や閉鎖はあるが、1校や2校という話ではないという。米国の大手メディアはほとんど報道しないので、日本から発信できないかという内容だった。
 ニューヨークでは100校以上が閉鎖された
 同市内だけで、今後数カ月に40校以上が閉鎖される予定だという。そうなると、知人の一人息子は慣れ親しんだ近所の小学校から、遠く離れた公立の小学校に通うか、ホームスクール(後述)を選ばざるを得ないらしい。

(中略)
 例えばニューヨーク市では近年だけで100校以上が閉鎖されていた。閉鎖を決めるのは市の教育政策パネル(PEP)で、マイケル・ブルームバーグ市長が圧倒的な権限を行使している。13人からなる理事会のうち過半数の8人を自ら任命し、市内の教育関連の施政を事実上牛耳っていた。
 同市長の教育方針は、全米中で見られる教育へのスタンスに共通するものがある。それは日本のゆとり教育からの反動と同じで、生徒の統一テスト結果を重視する方向に舵が切られていた。さらにビジネス型の学校経営が導入されたことにも原因がある。
 端的に述べると、教育レベルの低い学校を閉鎖するという悪しき慣行がまかり通り始めるのだ。同時に、予算不足による経営学的な観点から学校を閉めざるを得ないという。 

 
 これ「ニューヨークの高校生、マンガを描く マイケル・ビッツ著」の中でも、予算が削られ、高校がどんどんつぶされ、生徒も教師も混乱していく様子が描かれていた。

 あるいは「どこから始めればいいのか」で「落ちこぼれゼロ法」により、学力テストの成績の悪い学校が閉鎖さされるという形で無くなっていく様子が報告されている。しかし、それ、逆に言うと「成績の悪い生徒の行く学校が無くなる。居場所が無くなる」という話なんだよね。

 で「どこから始めればいいのか」でビル・ゲイツのTEDでのプレゼンテーションについて触れてるけど、その中でゲイツは「高校中退者は30%以上。非白人に限れば50%以上」ということを言っている。つまりそういう生徒が最初入った高校を最初からつぶしてしまえ、ってことになってるんだと思う。

 う〜〜ん・・・それは話のもっていきようが違う、という気がするなあ。

 しかし、その学校を中退してしまった15歳から18歳(あるいはそれ以上)の青年男女はどこに行くのだろう・・・ってか今どこでどうしているんだろう??



ラベル:学校 財政
posted by kingstone at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月01日

黒板導入史についての心覚え

 どこかで黒板が教具として使われ出したのはいつごろだろうか、というような話をしたと思うのだけど、Togetterの中も探せなかったので、今日発見したものをこちらにまとめておきます。

 なにか著作権の切れた小説や評論などをデジタル化して下さっている

青空文庫

というものを発見。ここデジタル化の作業をして下さった人のことを「工作員」と呼ぶんですね(笑)

ここにたまたま

「黒板は何処から来たのか」小倉金之助

という文書を発見。その中に書いてあることを時系列にそって取り出しておきます。

1794年以前 フランスで黒板みたいなものは多少使われていたかもしれない。

1794年 フランスでフランス大革命の恐怖時代が終って間もなく、生産拡充
     のための科学技術者と、優秀な砲工の士官を養成する、二重の目
     的を以てエコール・ポリテクニクが開校。画法幾何学を教えるた
     めに、黒板が使われたと思われる。

1813年 ボストンの牧師メー(Samuel J. May)がフランス人ブロシウス師
    (Francis Xavier Brosius)が、数学の学校で黒板を用いているのを
     見た。それでメー氏は自分でも使いだした。

1816〜23年頃 アメリカのウエスト・ポイント陸軍士官学校の数学の教授で
        エコール・ポリテクニク出身のフランス人クローゼー
       (Claude Crozet)が大工と絵の具屋に頼み込んで作らせ使った。

1860年頃 アメリカの初等学校に黒板の普及を見るに至った。

1872(明治5)年9月 師範学校(現筑波?)にて大学南校(現東大)の
          アメリカ人教師スコット(M. M. Scott)がアメリカ
          から教材・教具の到着を待って使用した。
1873(明治6)年 天文学教授マーレー(David Murray)が文部省学監となり、報告書を出す。
         「模範塗板ノ如キ既ニ之ヲ製造シテ」

     8月刊「師範学校、小学校教授法」算術の授業に黒板を使用している絵がある

     12月刊「小学教師必携」
         「教師塗板ヘ書スルトキ」

 このあたりから「最新の教具」としてどんどん使われていったのでしょうね。

ラベル:教具 教材
posted by kingstone at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月13日

どこから始めればいいのか

 こちらの番組、アメリカの「落ちこぼれゼロ法」と大阪の「教育基本条例案」を比較しています。



 この番組では「落ちこぼれゼロ法」がサッチャーの教育改革を参考にしているということを言っています。そして大阪の教育基本条例案もサッチャー改革を参考にしている。

 いわば「競争原理」を教育に持ち込もうというわけです。
 しかし、結果として「いい結果を出すようにしよう」ということにはならず「悪い結果を隠そう」という方向になってしまったり、「落ちこぼれゼロ法」の場合、割と成績の悪い学校が廃校になる、つまりその生徒たちの居場所が無くなる、という事態になっていることがわかります。

 ここらへん、むつかしいですね。

 私が現役の教師時代、「競争原理」を職場に持ち込んで欲しいと思っていました。自閉症の子を無茶苦茶にする授業・クラス運営をしていても、何もペナルティはないし、落ち着いた生活をさせていても何も得なことは無い。そこんとこしっかり競争原理を持ち込んで下さったらいいのじゃないか。

 あるいは市場原理。児童・生徒にあるいは親御さんに選んでもらったらいいのじゃないか。どこを評価したらいいかわからない管理職からの評価にならざるを得ないのはよくないのじゃないか、と。ほんとお医者様を患者がある程度は選べるように、教師も選んでもらえばいいのじゃないか、と。

 でも競争原理にしても、「いい教師」を評価し、全体をそちらに向けて底上げしていく形じゃなく、教師の悪いところを見つけて足を引っ張る、っていう方向に行きがちなものかもしれない。

 で、この動画を見ていて面白いのは、「うまくいっている小さな公立高校(アーバン・アカデミー高校)」というのが出てくるけど「選択と好奇心」とか「議論する」とか、あれれ、それってアメリカの授業の素晴らしいところ、とか言ってよく宣伝されるものじゃないのか?って思います。「白熱教室」みたいな。それがやっと出てきた、みたいな言い方をされています。でインタビューされている生徒が「ふつうの学校だったら生徒は言われたとおりにするものだ」と言っています。それが少なくとも彼の周辺ではそうなわけですね。

 確かに「アメリカではこうだ」「こうやられてる」と言われても、その人はそれを見てきたかもしれないけど、他の時間はどうなのか、また全体ではどうなのか、というのを常に考えていないとダメでしょう。

 「アメリカは個人の選択が大事な国だ」と言っても、1995年頃だったかABAを学びに行った方があちらの大学の方に聞いたら「まず服従を教えることが大切だ」とおっしゃったとか。

 また私は服巻智子さんが「アメリカではまず権利の前に義務を教えます」と言っておられたのはよく聞いています。(ただし、この言葉、もちろん真実ですが、服巻さんが徹底的に「このお子さんには何ができるのだろうか」を考え、その支援方法を考える方だ、ということがあっての言葉だということを忘れてはいけないと思います)

 Googleの入社試験ではよく「飛行機テスト」というのがある、という話は聞きます。つまり「こいつと狭い飛行機の中に長時間とじこめられても気持ちよく過ごせるか」というわけですが、しかし同時にものすごくシビアな「学校の科目などの得点による評価」もされています。「飛行機テスト」というのは最後の最後に出てくるだけで。

 何が言いたいか、というと喧伝されたり、ある方が言われたりしたことの、背後には「全然反対じゃん」と思えるようなことがあってバランスをとっている、というか・・・

 TEDでのビル・ゲイツのプレゼン。「Mosquitos, malaria and education」

 この中でゲイツは
「高校中退者は30%以上。非白人に限れば50%以上」
と言っています。そしてまた
「私の言うような改革をすればアジアの学校のようになれる」
と言っています。つまり彼の目指しているのはアジアのような学校。たぶん日本もその中に入るのでしょう。今、日本はいくらなんでも退学者30%ということはないでしょうから。(今後はわからないとして)

 だから日本は、いろいろ問題はあるにしても、いっぱい綻びはあるにしても、そこそこうまくやっているのかもしれない。

 あんまり簡単に諸外国をお手本に、なんてことはできず、自分たちのオリジナルを少しずつ作っていくしかないんだろうなあ。
posted by kingstone at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月03日

大阪教育改革とNCLB「落ちこぼれゼロ法」

 Togetterで

大阪教育改革とNCLB「落ちこぼれゼロ法」

をまとめました。まあ、アメリカと日本のもとの状況がかなり違うということをまず認識しないといけないと思いますが。

posted by kingstone at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする