※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2020年04月26日

教育にとってエビデンスとは何か 今井康雄著



 一昨年くらいか、「こういう実践をしたい」と言うと「エビデンスは?」と問われることが多くなったみたいな話をよく聞くようになりました。

 しかし、ABA でも、視覚支援でも、TEACCH でも一定の論文は出てるだろうけど、エビデンスとなるとどうなるんだろう。

 ABA についてはロバースやらなんやら積み上がっている部分もあるだろうけれど、しかし「エビデンスはあっても、やっちゃいけないこともあるよなあ」みたいに見えるところもあったりして。

 でも、エビデンスがあるなら、あるで、「はい、ここに論文あるよ」みたいなのがすっと出せるようにしたい、という気持ちは持ってました。



 PDFを印刷すると、なぜか文字化けがいくつか発生してしまいます。
 画面で見るとちゃんと出てる記号が、印刷すると「・」になってるところがたくさん。
 EPSON LP-S6160 の問題かな?

「普通に行われている Evidence への訴えはすべて、そのことによってそれ以上遡って問うことが 断ち切られるものであるかぎり、理論的にみれば [ ...] 神託に訴える以上のものではない。」 [Husserl 1992(1936):192(270f.)]


 確かに、そういう感じでエビデンスというものは使われがち。
 有無を言わさないために使うというか・・・
 (まあ、自分の体験ではこうだから、という言い方で無茶してくる人が多いから、ということはある)

 EBE の主唱者。 スラヴィン(Slavin)
         ハーグリーヴズ(Hargreaves)

 著者は

最近になって、NCLB 法(No Child Left Behind Act)に代表される科学的な根拠を 重視する政策を追い風として、教育の領域でもようやくエビデンスがものを言うようになってきた。


 と書かれている。しかしNCLB法は学力テストの成績が悪ければ助成を減らす、成績が良ければ助成を増やす、というようなことをして、貧困地区の学校が撤退していかざるをえなくなるようにしていたり、「科学的」とはとても言えないようなことをしているような気がするんだけど。




 教育の研究において

「教育において、研究は実践家の必要よりも研究者自身の関心に即して展開されている。そのために研究は往々にして非生産的な方法論論争に巻き込まれ、累積的な蓄積を見ることがない。」

 というか・・・実証的とは言えない「ひとりの頭の中にある思想」(例えばルソーとか)の研究になっていなかったか、というのは強く思う。例えば



 で、ハーグリーヴズは

こうした不健全な状態を変えるためには、何をいかに研究する かの決定を、これまでのように研究者コミュニテ ィに委ねるのではなく、「ユーザー・コミュニテ ィや政策立案者や実践家が研究プロセスの全域に わたって関与すること」[ibid. 10]が必要である。


と主張しているそう。

 しかしそれだけでもダメで、1997年頃、私が知的障害養護学校にいた時、本当に困って、私の地域から大学に内地留学した先生方のテーマを調べてみたことがあります。実践に役立つ研究をされた方がいれば、是非教えを乞いたいと思って。ところがまともに役に立つようなテーマで行かれた先生がおられなかったのにがっくりきた思い出があります。(あと、私がいた威嚇と暴力を主たる教育手段とする学校の中にもたくさん内地留学をされた方はおられたのですが、それやったらあかんやろ、みたいなことをされてたし・・・)

 実践家(現場教師は全員実践家のはず)であっても、何を求めればいいのか、わからない場合もあるからなあ・・・

 エビデンスとして高いもの RCT(Randomized Controlled Trial。ランダム化比較試験)

 二重盲検がもう一段高くなるのかな?

 ただ、薬だったら二重盲検できるけど、教育方法は「教師の行動」→「児童・生徒の反応」だから二重盲検はできるわけないよな。

 RCT は、メタアナリシスを経て、初めて真にエビデンスとなる。

EBE の理想のような事例が米国には存在する。学級規模をめぐる政策がそれである。1970年代末に、グラスとスミスは、学級規模の教育的効果に関する研究のメタアナリシスから、「学級規模が縮小するほど成績は上昇する傾向にあり、1クラス20人程度以下になると顕著に上昇する」[惣脇 2012:58]という結果を得た。80年代後半には、テネシー州において大規模な RCT が実施され、学級規模縮小の効果が確かめられた。このプロジェクトは他の州にも大きな影響を与え、クリントン政権下の1998会計年度からは連邦レベルでも学級規模縮小プログラムがス タートすることになった [ i b i d . : 5 8 - 6 1 ]。


 あれ?
 私、「成績」と「学級規模」は相関が強くなかった、という結果が出ていると覚えているのだけど。

 なお、この学級縮小プログラムは、2001年、ジョージ・ブッシュ政権で事実上廃止。そして縮小のためのお金は、採用のためではなく「研修」などあらゆることに「柔軟」に使えるようになり、学級規模が拡大していったとのこと。

 RCT が明らかにするのは
    特定の入力(上記では学級縮小)
      ↓
    特定の出力(学業成績の向上)
 だけであり、なぜそうなるか、は明らかにしない。
(しかし「なぜそうなるか」を明らかにする RCT というのも存在しそうだけど。もちろんそれは「また別の実験」とならざるをえないだろうけど)

 結局は、

「時々の教育的あるいは政治的流行」を正当化するのに都合の良い論拠をそのつど提供する、という役回りを演じる」

と。

エビデンス批判について

とりわけ批判の目が向けられているのは、教職の理解に及ぼすエビデンスの効果である。教育の場でエビデンスを強調することは、専門家としての教師の自由を狭める結果をもたらすのではないか、というのである。

 これって、私が仲間と昔、「統一された対応か、教師の個性を生かした指導か」という論争で出てきたものと同じような気がする。



 もし、本当に役に立つエビデンスなら、それに従いながらそれぞれの個性を発揮する指導は、まったくもって可能だと思います。

 これらは対立する概念では無いと思います。

 そして EBM においても

「目の前の患者に対するエビデンスの適用可能性についての判断」が求められる、という[Guyatt 1991]。


というのですから、「この場合は、これ使っちゃだめだよなあ」みたいに考えていくことは大切なはず。

こうしたエビデンスに起因する困難は、EBMを先行モデルとしてきたEBEの側だけではなく、EBEを批判する側にもその痕跡を残している。一方で、EBEは、EBMの核にあったエビデンスと応答責任との関係をほとんど真剣に受け取ることなく、政策動向の流れに乗った説明責任の文脈でエビデンス―ハマースレイの言う「エビデンスに基づいた説明責任」―を追求してきた。エビデンスが持つ正味の証拠能力に訴えようとするEBEの議論が空虚に響き、教育の文脈でのエビデンスが浮き草のように頼りないのはおそらくここに原因がある。他方EBE批判派の側も、論敵のそうした浮き草状態にいわば安住して、応答責任を支えるようなエビデンスの可能性について真剣に考慮しようとはしなかった。EBEの議論が応答責任に応えることなく説明責任の文脈に横滑りしているという事実を指摘すれば、批判としては十分だったのである。

 この「応答責任」というのが私にはわからない。

 で、検索すると、論文みたいなのが出てくる・・・(泣)







posted by kingstone at 20:50| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月25日

ピアノを習いに来ている生徒への妻からの手紙



 妻は、ピアノ講師をして食ってます。
 ピアノ教室と私の支援部門「じんぶな〜」が合わさって「合同会社KS」になります。

 妻が教える対象は「コンクール」などとは縁のない子達です。
 どうかすると、家にはピアノもキーボードも無い。
 そんな子達がちょっと弾いてみたいなあ、とやってくるピアノ教室です。

 このピアノ教室でも宿題が出ます。
 学校の宿題もそうですが、できなかったり、やらせようとする親御さんとバトルになる時もあります。(そうなるのは無駄だし、本末転倒だと思いますが)

 なおこのエントリーのことを妻に話したら
・今までも口(音声言語)では言ってた
・私(kingstone)が「見て分かるもの」の大事さをよく言っているのでお手紙にしてみた
との追加説明がありました。

 今回、妻が子ども達へ、また親ごさんたちへ向けて作ったお手紙。
ーーーーーーー

@きほんは、おうちで、しゅくだいのきょくをじょうずにひけるように、れんしゅうしてきます。

Aでも、おうちでれんしゅうできなかったとこも、だいじょうぶ!
 その時は、レッスンのときに、先生といっしょに、いっしょうけんめいがんばったらOK!

Bしゅくだいじゃないきょくや、すきなきょくも、おうちでたくさんひいてあそぶのも、OK!
 とてもすてきなことです!



posted by kingstone at 01:11| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月16日

学校と教師の特殊性(?)



Togetterで


をまとめました。


posted by kingstone at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月22日

高等学校とか大学とか


その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省

の余波は、少なくとも私がネットであれこれの発言を見る限り、まだまだ続いています。

 あと、職業教育学校化についても。

 私が目にするのは「あほかいな」みたいな、文部科学省や職業教育学校化に対する反論が多いですが・・・
 
 で、触発されて少し考えてみようと思います。

 先日、サッカー(特に男子サッカーかな)に喩えて反論してはる意見がありました。
 日本がある程度世界で強く(ワールドカップに出場できるかできないか、ではありますけど)なれたのはJリーグのしかもJ1だけがあったからではない。底辺が広くなってるからこそだ、と・・・

 たしかに底辺が広いのは大切。
 でも、J1、J2、J3、JFLとか、すごく厳しい競争にされされてるわけで・・・入れ替え制度もあるしね。
 あと、小学生や中学生などの学校や地域クラブがあったり、大人も地域クラブがあったり。
 小学生とかすごくたくさんの子がプロになるのを夢見ているだろうけど、そのほとんどの子はプロにはなれないわけね。でも、その子たちが試合を観に行ったり、グッズを買ったりするのもサッカーが繁栄し、日本代表が強くなっていくためには大事なことだろうな。

 でも、サッカーとか言うなら、割りとわかりやすよね。ゴールにボールを蹴ったりヘディングしたりして入れれば得点。得点の多い方が勝ち。

 大学で学ぶことって多岐にわたってて、あんまりわかりやすくないなあ・・・
 子どもも、あまりあこがれないかも・・・ロケットとかロボットとかならあこがれやすいかな。でもシェークスピアの英語劇とかあまりあこがれないとは思う。(もちろんあこがれる子もいるかもだけど)

 あと、たぶん草サッカーのクラブで楽しんでいる18歳以上の子なら、「自分はプロになれない」とかは自覚できてるだろうと思う。

 大学で学ぶ人はどうだろう。
 社会人を経て入って来た人とかだったら、学びたいことが決まってることも多いと思うけど、高校から直接やって来た子はどうだろう?
 自分はどの分野でプロになりたいかが決まってる子ってどのくらいいるだろう。もちろんそんなもの決まってなくって良くって、いろいろなことを「やってる」うちに決まってくるのだろうと思う。

 じゃあ高校はどうだ?
 
 う〜〜ん、しかし高校ってのは、「青春を楽しみたい」みたいなことは大事だと思う。で楽しめないのなら別の道を探してもいいような気もするのだけど。

 ビル・ゲイツがTEDで「私の主張するような教育方法を取ればアジアの高校みたいになれる」と言ってたけど、それはアメリカが高校で30%が中退し、黒人に限れば50%が中退する、ということに危機感を持っているからこそなわけだけど。(なおゲイツはハーバード中退だよね)

 う〜〜ん、なんか全然まとまらない・・・

 
posted by kingstone at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする