画面で見るとちゃんと出てる記号が、印刷すると「・」になってるところがたくさん。
EPSON LP-S6160 の問題かな?
「普通に行われている Evidence への訴えはすべて、そのことによってそれ以上遡って問うことが 断ち切られるものであるかぎり、理論的にみれば [ ...] 神託に訴える以上のものではない。」 [Husserl 1992(1936):192(270f.)] |
最近になって、NCLB 法(No Child Left Behind Act)に代表される科学的な根拠を 重視する政策を追い風として、教育の領域でもようやくエビデンスがものを言うようになってきた。 |
こうした不健全な状態を変えるためには、何をいかに研究する かの決定を、これまでのように研究者コミュニテ ィに委ねるのではなく、「ユーザー・コミュニテ ィや政策立案者や実践家が研究プロセスの全域に わたって関与すること」[ibid. 10]が必要である。 |
EBE の理想のような事例が米国には存在する。学級規模をめぐる政策がそれである。1970年代末に、グラスとスミスは、学級規模の教育的効果に関する研究のメタアナリシスから、「学級規模が縮小するほど成績は上昇する傾向にあり、1クラス20人程度以下になると顕著に上昇する」[惣脇 2012:58]という結果を得た。80年代後半には、テネシー州において大規模な RCT が実施され、学級規模縮小の効果が確かめられた。このプロジェクトは他の州にも大きな影響を与え、クリントン政権下の1998会計年度からは連邦レベルでも学級規模縮小プログラムがス タートすることになった [ i b i d . : 5 8 - 6 1 ]。 |
とりわけ批判の目が向けられているのは、教職の理解に及ぼすエビデンスの効果である。教育の場でエビデンスを強調することは、専門家としての教師の自由を狭める結果をもたらすのではないか、というのである。 |
「目の前の患者に対するエビデンスの適用可能性についての判断」が求められる、という[Guyatt 1991]。 |
こうしたエビデンスに起因する困難は、EBMを先行モデルとしてきたEBEの側だけではなく、EBEを批判する側にもその痕跡を残している。一方で、EBEは、EBMの核にあったエビデンスと応答責任との関係をほとんど真剣に受け取ることなく、政策動向の流れに乗った説明責任の文脈でエビデンス―ハマースレイの言う「エビデンスに基づいた説明責任」―を追求してきた。エビデンスが持つ正味の証拠能力に訴えようとするEBEの議論が空虚に響き、教育の文脈でのエビデンスが浮き草のように頼りないのはおそらくここに原因がある。他方EBE批判派の側も、論敵のそうした浮き草状態にいわば安住して、応答責任を支えるようなエビデンスの可能性について真剣に考慮しようとはしなかった。EBEの議論が応答責任に応えることなく説明責任の文脈に横滑りしているという事実を指摘すれば、批判としては十分だったのである。 |