私の関わりのある法人
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※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2020年08月21日

フラジャイル 第18巻




 岸先生が医療事故訴訟をちらつかされている話。

 いろいろ名言。

弁護士「真っ向勝負する気か」
岸  「勝負じゃないだろ」
弁護士「?」
岸  「どいつもこいつもなんで勝ち負けで測るんだ」
   「誰も悪くない。それを納得することでしか遺族は慰められない」

 そうなんよな。
 教育実践や福祉実践もそう。

「どんな名医でも最初は何もわかりません。所見を頼りに疑い、病名をつけて治療が効けば、初めて正解となります。違ったなら新たに追加された所見で診断を見直す。これを繰り返していかに早く正解にたどりつくか。これが臨床医の基本です。その過程を想像も尊重もできない人に、結果だけでミスだと判断されたら、現場では何もできません」

 教育実践や福祉実践は「治す」というのとは違って、「正解らしきもの」にたどりつき、そこそこ楽しい暮らしを形づくっていく。でも「その人に対しての正解らしきもの」にいかに早くたどりついて実践していくことが大事だよな。

 しかし、伸び盛りの時に、「誤答らしきもの」を金科玉条にした実践を延々と続け、まずくなってる場合は・・・

「この病院はひどい。風通しが悪い。小さな権力者と、その顔色を見ることしかできない部下が多すぎる。データやエビデンスじゃない所で診断が動いている」

 教育実践や福祉実践の場合、エビデンスってのは非常に難しい。しかしデータ(今、ここでの姿、暮らし)はわかるわけで・・・

 仕事について

岸 「森井さんはこの仕事面白い?」
森井「・・・面白い・・・と思います」
  「もっと好きになりたいと思ってます」
岸 「そう、じゃあ、腕を磨いてください」
  「上手くなれば面白くなる。面白くなれば好きになります」

 しかし・・・「労働条件も大事だよ」というのが巻末のおまけ漫画に書かれてますが。


 いやあ、この巻で決着がついてないので、次巻が待たれます。


posted by kingstone at 20:25| Comment(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月18日

天皇と「日本」の国号(日本の歴史をよみなおす(全) 網野善彦著 より)




5〜6世紀 畿内の首長の間で、後年の天皇につながる大王(おおきみ)の地位は承認されていたが、まだまだ流動的。

中国で随・唐の大帝国ができ、その影響で律令制度を取り入れようとした。

随 581年 - 618年
唐 618年 - 907年

天皇という称号が安定的に用いられるようになるのは持統天皇から。

天武天皇はだいぶ安定的に称されていたが、天智はまだ。

「日本」という国号はやはり天武・持統の頃からで、天皇という称号とセットになっている。

701年に派遣した遣唐使(これは「馬から落ちて落馬して」みたいな表現?)は「日本の使いである」と唐の役人に述べている。

公の意識
税を安くしろ、という闘争は起きたが、税を無くせ、という闘争は起きたことが無い。

8世紀 大宝律令から始まる律令国家。しかし貴族たちの力は強く、天皇専制ではなく太政官による合議制。
9世紀 薬子の乱を抑える。
天命思想を持ち出し、天皇の権威を正当化する必要は無くなった。
職の体系 それぞれの氏が特定の職能を継いでいく

陰陽寮 → 安倍氏
太政官事務局 → 小槻氏(おづきし。計算に優れる)
天皇 → 天皇家
摂政・関白 → 藤原氏北家

10世紀 ほぼ職の体系の体制ができた
11世紀 職の体系が支配的になる

天皇家と仏教との結びつきは強かった
江戸時代までは火葬であり、陵墓は仏教との結びつきの強い時代は作られなかった。
昭和天皇(たぶん明治も大正も)の葬儀の仕方は明治後のもの。古墳時代の復興。

10世紀 沖縄、北海道だけではなく、東国も天皇の統治から離れようとしていた。

天慶の乱(藤原純友の乱、平将門の乱)

(平将門って東北の英雄みたいなイメージを持っていたのですが、関東、東京近辺の人だったんですね)
「関東」というのが国号のような響きを持っていた。
 西国は天皇支配、関東は武家支配というような形。

13世紀後半から14世紀 天皇家の危機。

大覚寺統と持明院統
北朝と南朝
社会のあり方の大きな変化があり、鎌倉新仏教の僧侶を呼び寄せている



posted by kingstone at 18:40| Comment(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

復活力 サンドウィッチマン著




 元はM-1グランプリを取った2007年末から半年後くらいに書かれたのかな。

 2018年に文庫化されて、文庫版後書き(対談)が収録されています。

 売れない時代、必死にもならず、だらだらと(?)していた時代。

 富澤「やめようか」
 伊達「何言ってんだよ、まだ早いよ」

 富澤さんの様子が朝おかしかったことに気づき、自殺しちゃうんじゃないか、とバイトを早めに切り上げアパートに帰る伊達さん。

 まあそういうことを通り過ぎての M-1 優勝なわけだけど。

 そっか・・・「まだ早いよ」・・・


 2007年 M-1 グランプリの DVD が見たくなりました。


追記
教えてもらって、アマゾンプライムビデオで見ることができました。
「エピソード7」ってやつです。
敗者復活戦会場、大井競馬場ではサンドウィッチマンが呼ばれた時、他の出場者、みんなニコニコ祝福してたのに、決勝会場でサンドウィッチマンが呼ばれた時は、他の出場者はみんな憮然とした表情。 当たり前かもしれないけれど、コントラストがすごかった。


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2020年08月13日

女性をめぐって(日本の歴史をよみなおす(全) 網野善彦著 より)




第4章 女性をめぐって

ルイス・フロイスの「日欧文化比較」
「フロイスの日本覚書」中公新書

フロイスが記録していること

「日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わければ、結婚もできる」

「ヨーロッパでは財産は夫婦のあいだで共有である。ところが日本では各人が自分の分を所有している。ときには妻が夫に高利で貸し付ける」

「ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。日本ではしばしば妻が夫を離別する」

「日本では娘たちは、両親に断りもしないで、一日でも数日でもひとりで好きなところ出掛ける。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている」

「日本では堕胎はきわめて普通のことで、20回も堕ろした女性がある。日本の女性は、赤子を育てていくことができないと、みんなのどの上に足を乗せて殺してしまう」

「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の町になる」

と書かれているので、これはキリスト教宣教師であるフロイスさんの偏見ではないか、と網野さんは思っていたけれど、「これは本当である」と考えていろいろ調べていくと見えてくるものがあったと。また

「ヨーロッパでは女性は文字を書かないけれども、日本の高貴な女性はそれを知らなければ価値が下がると考えている」

など、日本の美点(?)も書いてあることから、偏見ばかりでもなさそうだ、と。

 まあ「原始、女性は太陽であった」というのは言い過ぎだとしても、古代は相続も男女平等だったのが、家父長的価値観で貫かれた中国の法制を取り入れて律令を作ったために、少しずつ建前としては家父長制が進んでいったのではないか、と。

 また家父長制の強い江戸時代、三行半で男の好きなように離縁され、女性が離縁したいと思ったら駆け込み寺に入るよりなかった、と考えられてきたが、確かに三行半は男が書いたのだが、それは「義務」であり、女性に書かされた面もあったのでは、と。

 また中世、社寺への参籠も、暗闇の中でフリーセックス的なことが行われていたし、歌垣みたいなものもあったし、ってことは父親がはっきりしない子どももたくさんいたのかもしれない。(家父長制だと、これは困る)

 あと、妻が夫に高利で貸し付ける場合もあった、ということについて、女性が荘園の管理をしていたり、女性が自分の財産を持つことも普通にあったみたい。

 しかし、室町時代あたりから、だんだんと文献に表れることが少なくなり、日野富子のように、金貸しをしていた女性が「悪女」の誹りを受けるようになる。

 律令制のゆるみとともに、女性の職能団体が出てきて、遊女も官に位置づけられていたものから、職能団体となっていく。津や泊を拠点とし、西日本では船で動いている。(で、室津の遊女が出てくるわけやな)

 平安後期には女性の商人の記録も多い。

 大原女(花売り)も、遊女のような仕事をしていた、という話も聞いたことがある。

 比丘尼の寺院が・・・というのも、熊野比丘尼という遍歴の比丘尼が遊女としての仕事もしていたし、実際にそういうことはあり、それが賤視にもつながっていたのかも。

 仏教伝来の時に日本人で僧になったのは女性からだったけど、これも官に位置づけられて高く見られているところからの賤視への変化で、そういうふうになっていくものなのかな。


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2020年08月12日

畏怖と賤視(日本の歴史をよみなおす(全) 網野善彦著 より)




第3章 畏怖と賤視

古代

7世紀後半に律令国家成立。

まじめに戸籍に登録しようとした。

その中で

廃疾 → 廃人と言っていいような重い病気の人、身体障害を持つ人
篤疾 → 非常に重い病気の人

他の人と一緒に記載。そして課役は賦課しないことになっており、介護者を決め介護せよ、という原則になっていた。

少なくとも建前では排除していない。

8世紀には全員登録というのが無理になってくる。

国家の規制力が弱まり、浮浪、逃亡する人が増えた。
(課役の負担が大きいため)

浮浪、逃亡する人への対策(救済)のために悲田院、施薬院が作られた。
悲田院出身者(子どもだったのか?児童擁護施設みたいなもん?)は成人後、平民の養子となったので、特段の差別はなかったよう。

9世紀には予算が無くなり、悲田院の人も稼がないといけないようになる。
そのさいに、鴨の河原の死体処理をさせたことがわかっている。
このあたりで平民の集団から離れることが始まったか。

また他の、官庁に所属していた手工業者を始めとした職能民は独自に集団を作って動き出さざるをえなくなる。遊女もそう。
(って、官って、時代が下ればお金が無くなって、やっていた施策が無理になる、って基本的な形なのかな?)

10世紀、11世紀には身寄りの無い人や重病人を官が支えるのはまったく無理になる。


一遍 1239 - 1289

天狗草紙 1296年制作

奥書により、1299年(正安1年)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いた。

一遍聖絵 非人の救済、非人の信仰
天狗草子 一遍を天狗とし、非人をこきおろす
(解説を読むと、諸宗の僧侶を天狗として笑っているよう)

posted by kingstone at 23:11| Comment(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする