※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2010年09月25日

「おめめどう」に行けなくなったわけ

 これはブログテーマは「うつ」です。

 退職し、家でねたきりになってしまってからしばらくして。

 メールを読むこともほとんどせず、(ざっと題名を見て終わりくらい)、返信なんてとんでもない。

 でもその頃は、いろんなところからスパム以外にもメールが届いていました。


 引きこもっていて、でも、外に出なきゃなあ、と思い出した頃。ハルヤンネさんの「おめめどう」に関するメールがとても楽しそう。そして人手が足りない様子。そこで思い切って「仕事に使ってもらえないでしょうか」とメールを送ってみました。そしたら二つ返事でOKが返って来ました。

 で週に1回通うことになりました。仕事量も調整して下さいました。

 妻も私が外へ出るというのでとても喜んでいました。


 私が主としてやったのは顧客管理。と言っても、要するに注文のメールやファックスが来たらそのデータをデータベースに打ち込んでいくこと。

 来たメールやファックスには、注文とともにそれまで購入した商品を使って自閉症のお子さんについて「落ち着きました」「楽に暮らせるようになりました」「子どもの言いたいことがわかるようになりました」などのエピソードが添えられていることが多かったです。

 そんなの読んでるよりひたすら打ち込め、というところかもしれませんが、とても幸せな気分になるというか、やりがいの持てる仕事でした。

 しかし・・・保護者はいいのですが・・・

 特別支援教育担当教師からも注文が来ます。それを打ち込んでいる時、「なぜ私じゃないのだ」という悲しみ?怒り?嫉妬?何とも言えない気持ちが沸き起こってきます。これはつらかった・・・

 あと、責任が増えて来ると「逃れたい」と思う気持ちが出てきたのもあります。

 で、お願いして行かないことにしてしまいました。相談したり調整してもらったりすれば良かったのかもしれませんが、極端に振れてしまうのはやはり病気のせいでしょうか。

 で、また引きこもり、布団に入りっぱなしの生活に戻ってしまいました。

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2010年07月31日

私自身の治療

私自身への診断1
私自身への診断2
私自身への診断3

とかぶりますが、わたしのうつへの治療について書いてみます。

 エピソードとしては、中学の時に不登校になりかけたり(読まねばならぬ本が多いから家で読む、と1日だけ休んだ。何故か小学校の時の担任がやって来て私と話してくれて翌日からまた登校した。今から思うと母が頼んだのか?)大学の時には先輩から「暗いぞ。もっと明るくなれ」と言われてました。ネクラというやつじゃなく、うつ的な部分が多く、周囲に笑顔をあまり見せなかったようです。

 卒業後、なんやかんやあって2年後に教師になりました。

 覚えているのは、通勤の時の風景が山の緑や空の青もあったはずなのに、灰色に見えていたこと。

 また登校(出社)時に不安があり、せめてと考え朝職員室に入る時に大声で「おはようございます!」と挨拶しようと実行していたこと。これは少し効果があったようです。

 あと自分は「変」だ、という意識、もちろん「だからダメだ」という意識がありました。

 ところがカウンセリングの勉強をしようと、自分もカウンセリングを受けているうちに「変でもいいんだ」と自信が生まれてきました。自己肯定感ができた、ということになるでしょうか。

 そして、人づきあいが良くなり、他人にうまく質問できたりするようになります。
 また見える風景もきらきらと色彩豊かに見えるようになりました。
 うつを脱した感じでしょうか。

 あと、こういうことはこの人に聞いたらいい。ああいうことはあの人に頼ればいい、とかいうのがよくわかるようになった、というのもあります。

 肢体不自由特別支援学校にいた頃は元気だったと思います。しかし妻に言わせると年に1度は真っ暗なオーラにつつまれていた、ということですから、時期によっては出ていたのかもしれません。自分自身は真っ暗とか真っ黒とかあまり気がついてなかったのですが。ただし、そういう時は「仕事をやめたい」とは思いました。

 知的障害特別支援学校に行って、まあえらく悩むようになり、だんだんとうつの時期が長く、また深くなっていきました。

 で、通常校の特別支援学級担任になり、2年目終わりか、3年目始めについに精神科に通うようになります。この時は「眠れない」「周囲が真っ黒(暗じゃなく)」という感じで、「助けがいる」と思いました。カウンセラーでなく精神科に行ったのは「とにかく休みたい。しかし休むための診断書は精神科でないと出せない。カウンセラーはお金が高い。時間もかかるだろう」と判断したからです。

 でお医者様に行ったけれど

「私は環境は変えられません。(薬は出せます、と言われたかなあ・・・よく思い出せない)」

ということで「休み」は出ず、薬が出ます。1日パキシル10mm1錠だったか、2錠だったか。睡眠導入剤は何だったか忘れました。とにかく効かなくて、すぐマイスリーに変えてもらいました。

 パキシルは効いたのか、効かなかったか・・・よくわからないんですよね。でも、命綱みたいな感じで飲みましたが。

 で、ずっと通ってて、その時、特にそれまでと状態が変わった感じでは無かった(低空飛行を続けている感じ)のですが、主治医が「精神科では複数の薬で治していくこともよくあるのです」と言い、ワイパックスとドグマチール(これは100mmを1日2回)を飲むことになります。薬がどんどん増えていくのではないか、という不安はあったけれど飲みました。で、以前書いたように、授業をやっていても、車を運転していても眠ってしまうようになり学校に通うのが不可能になり休職に至ります。

 薬はそれがずっと続いていました。パキシルは20mmになり、最大それが1日2回ということになったかな。そこは覚えていません。

 そうそう、うつの気分が無くなる、という感じではなく、感情が平板になる感じはありました。落ち込みはしない。でも嬉しくもない。泣けもしないし、笑えもしない。どうもそれはパキシルの「効果」でもあるようです。

 それからさらに2種類増えたような気も・・・その時は薬局で買いましたけど服みませんでした。

 結局、退職になりました。

 で、まあ、寝たきり(トイレと食事以外)とか、少し外へ出る、みたいな日々を過ごしていました。

 そうそう、希死念慮はずっとあったので、主治医に一度「死にたいのですが」と言ったことがあります。何と答えられたのか忘れましたが「あっ、こういう話題は出してはいけないのだ」と思える答えでした。それ以後、その手の話はしていません。まあ「現実原則を身につける」という意味で精神療法になっているのかもしれません。

 後年、まずワイパックスは主治医が「工場が無くなって生産されなくなった」と言い、薬を別のものに変えようとしましたが、私がこれをチャンスに止めよう、と思って断薬しました。不安は少し出ましたが、できました。

 もう退職してしまったし、ストレスの元も無くなったのだから、薬を止めていこうとしたのですね。

 またその後、ドグマチールも量を1日1錠にするところから始めて、自分で断薬しました。これも不安は出たし、腕のしびれも出たのだけど、断薬できました。

 これらは主治医には事後報告です。断薬の相談にはのって下さいませんので。お医者様としては「必要」ということだったのかもしれません。

 Twitterでお医者様のツィートを見ていて患者から「○○の薬を出してくれ」というのはいけないけれど「○○の薬は飲みません」というのはありだ、というのがありました。そうなんだろうな、と思います。

 パキシルの断薬には何度も挑戦したのですが、離脱症状がひどく断薬できませんでした。身体依存・精神依存ともにあるようです。

 睡眠導入剤のマイスリーは「不眠」という困ったことを軽減してくれているので、納得して飲んでいます。しかしパキシルは・・・効果が実感できないのと、離脱症状があって止められないといいうので、何か納得できないところがあります。どこかで「効果は偽薬(プラセボ)と同じ」というデータも見たような気がしますし。今の知識が飲み始めの時にあれば、お断りしていたと思います。

 しかし、飲み始めの時は知識も無いし、それこそ藁をもすがる、という気持ちだから断るのなんて無理でしたが。

 なかなか難しいけれど、治療に患者も主体的に関わっていかないとだめなんだな、と思います。


 結局、寝たきりでなくなったのは・・・私はネットワーク依存だと思っていました。しかし寝た切りになって、パソコンを起ち上げない日も続きました。電子メールについても、届いても返事を書くことができませんでした。むしろ届くのがいやでした。

 起ち上げてもキーを触ることなく、マウスだけで、少しネットサーフィンをする程度でした。

 そのうちTwitterが話題になって来ました。

 Twitterに登録してみました。これはまあ「登録」ができるくらい元気が出てきた、ということだったのかもしれません。

 自分ではひとこともつぶやかず、子どもの頃、あこがれていた物理学者さんや、堀江貴文さんのツィートを見ていました。何か面白いと思えました。

 ある日、またつぶやいてもいなかったのに、いったいどうやって私のアカウントがわかったのか、Twitterから昔の仲間が私をフォローした、というメールが届きました。その瞬間から、それこそ脳の中に脳内物質が出てくる、そんな感じがしました。そして寝込む時間が減り、起きていられる時間が増えていき、ブログを再開することができるようになりました。

 今、起きている時間が増えたのはパキシルのおかげなのか?あんまりそういう気はしません。



















 
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2010年05月27日

私自身への診断3.9

 私自身への診断4の少し前になると思います。

 校長からはボロクソに否定されていました。

 報告しようとしても
「君は私の話を聞かない。私の話を聞け」
と怒鳴りつけられ、相当困った話をえんえんと聞かされました。

・お前の特別支援教育が間違っている。
・自閉症の子も集会では列にみんなと並べてこそ喜びがあるのだ。
・ある保護者は虐待ではない。しつけだ。

その他その他。

 私の今までやってきたことをすべて否定し、校長である私の言う
ことを聞け、という感じ。

 ある日曜日、公園に息子達と遊びに行き、帰ろうとした時、
「明日学校だ」と思い校長の顔が浮かんで来ました。その途端、腕が
しびれ動悸がしてきました。「ああ、学校へ行けない」と思いました。

 月曜日に、ある集会の司会をする予定でした。
 夜、同僚に電話しました。偶然中学の同級生であり親しい仲でした。

「すまない。明日行けない。司会を私に代わってやってくれ。
 その後も学校に行けないかもしれない」

 話を聞いた同僚は「何故だ?」と質問をし、それが校長とのあれこれだ
と知ると

「それはもったいない。校長から暴言をはかれているのは職員全員なんだ。
 お前だけじゃないよ。お前の責任じゃ無いんだよ」

 私は全然知りませんでした。校長は職員全員に暴言を吐き、今で言えば
パワハラを行っていたのです。私は当時同僚と雑談するということが無く
なっていたのでわからなかったのです。

 受話器を握りしめたまま私は号泣していました。そして号泣したことで
心が軽くなり、また学校へ行こう、という気持ちになりました。

 この後、たまたま知り合いの精神科医に会う機会がありました。
 診察ではなく、まったくの雑談です。その中で私の症状などを言うと
「それはパニック障害。昔で言う不安神経症」とのことでした。

 パニック障害と言うと、心臓が止まりそうな思いをして救急車を呼んで、
というイメージがあったので「そこまでじゃないのだけど」と言うと
「程度はいろいろあるからね」とのことでした。

 なるほど、そういう診断でもあるのだなあ、と思いました。

 で、しばらくは登校(仕事)を続けられたのですが、「私自身への診断4」
に至るわけです。

 校長先生のパワハラですが、ご本人のもともとの性格ということでなく病気
のせいだったかもしれません。

 脳の血管の障害で倒れられ、治療をしておられました。

 頻繁に激怒して職員にあたっていました。

 また特別支援学級の児童の中学進学にあたって中学と相談しないといけない
ことができました。その時、校長がすぐに動いてくれ、中学に電話をかけ、か
つその足で校長・担任・児童が中学へ行き、相談し話をうまくまとめて頂きま
した。それは良かったのですが、その翌日校長が担任にこう言いました。

「昨日、私は何かしたっけ?」


 ドラマの「ER救急救命室」の中で「もともと腕がいいけれどアルツハイマ
ーにかかり、感情失禁で激怒したり記憶の抜けができる」という医者が出て来
ます。彼の場合は、自分で気がついて引退を決意するわけですが。

 彼がERを去ろうとするまさにその時、難しい患者が運ばれて来ます。彼は
見事に救命します。そして(まだ局面では力があるのに)去って行きます。

 校長の場合は「やめろと言われても、定年まで勤めきるのが責任と言うものだ」

と言っていました。

 しばらくして私は休職に至りますが、その間に管理職を除くすべての教員が
一致して連名で教育委員会に「校長を替えるか処分して欲しい」と直訴をする、
という異例の事件が起こります。

 しかし何も起こりませんでした。

 「校長の権限」「委員会からの校長への信頼」というものはそれほどまでに
強いようです。



 







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2010年05月25日

私自身への診断6

 休職、復職をへて異動しましたが・・・

 異動はきつかったみたいです。
 周囲が知らない人たちで1から関係を作っていかないといけない。
 今まで自閉症の子のためにと作ってきた環境も無い。(1から説明し、
作っていかないといけない)

 それでいて対人回避傾向は強くなっている。

 結局ひと月ほどでまた休職。

 この頃からは、基本的に家ではずっと寝てました。

 頑張って外へ出ようと、少し散歩、コーヒーを飲みに行く、が少し
あったかな。

 途中「復帰プログラム」を挟み、短期間復職したりしましたが、戻り
きれませんでした。

 人事主事からの勧告を経て退職にいたりました。

 その間、薬は変わっていませんね。





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2010年05月24日

私自身への診断5

 診断書が出て3か月の休職。

 この時は休むことで元気が恢復(?)しました。

 休んでいる間、したかった釣りをしに行ったり。

 増やした薬が効いた??よくわかりません。
 とりあえず休んだことの効果が大きいような気がします。

 結構元気が出て復職しました。

 しかし、対人回避傾向というか、困難を回避しようという傾向と
いうか、そういうのは強くなっていました。

 そして復職して異動希望を出したのですが、これも
「ここ以外ならどこへでも」というやつで、あまり良くない決断だ
ったかもしれません。



posted by kingstone at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | うつ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする