この「(支援者が)手を持ってコミュニケーションする」という方法については、以前にも記事にしています。
しかし、その頃より、少し考えが進んだというか「字をかける」ということと「コミュニケーションできる」ということを分けて考える必要があるな、ということを思い出しました。
以下に Twitter(X)に書いたことを、とりあえずまとめておきます。
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FC について、TL にいろいろ流れてきたので、FC ということではなく「手を持ってするコミュニケーション」について、肢体不自由養護学校、知的障害養護学校の現場で働いてきた人間としての見解。(「専門家」ではなく、一実践者としてですが)
実際問題として一人では字が書けないのに、手を持ってあげる、場合によってはサポートしてあげることで、字が書けるお子さんは存在しました。ただし、そうなれば「どうしたら、(人的サポート無しで)一人で出力できるように環境整備したらいいか」を早急に考える必要があります。
それが肢体不自由の場合、機器(随意部分を使ったスイッチ操作。最近は視線入力もあり)を使ったAAC、ということになるし、知的障害の場合、例えば PECS とかになります。なぜか?人的サポートだと、本人の書きたいことだと支援者が思っていても、実は支援者が書かせたいことだったり・・・
肢体不自由の場合、実は知的障害も合わせもつことも多いから、機器を使ったAAC と PECS との組み合わせとかそういうことも必要になってきます。(最近、AAC とおめめどうの組み合わせという例も知った)
このあたりはカウンセリングを実践者になろうと学習(そして訓練)を受けた人だとよくわかるのじゃないかな。クライエントさんの考えていることと、カウンセラーの考えていることを確実に分けられるようになるのは、基本だけれどもものすごく難しいことです。
「よし、この支援者が手を持ってするコミュニケーションを追求しよう」とずっと続けていると、どこかで本人ではなく支援者の書かせたいことになっていく危険は常にあります。
あと、本当にその書いたことがコミュニケーションになっているのか、というのも大事です。
パソコン通信の黎明時代、いろんなところに野良ネットワークがありました。肢体不自由養護学校の生徒でパソコンで字が打てるようになった子がいました。
野良ネットワークにその子が書き込むとみんなが褒めてくれました。するとその子は嬉しかったのでしょう。あるいは親御さんが「これしてみたら」と言ったのかもしれません。毎日「天声人語」を打ち込むようになりました。
ある日誰かが「いや、『天声人語』はいいから、あなたの思ってることを書いてよ」と返信しました。
その生徒は何も書けなくなってしまいました。特に誰かに伝えたいことが無かった(というか、それを表現する手段を持たなかった。例えキーボードが打てても)からです。
その方ご自身の自発の欲求を表現できているのか、自分が感じ、思って、他人に伝えたいことを表現できているのか。
そこを注意深く見て行く必要があると思います。
なお、過去の記事を読んでいて思い出したのですが 平本歩 さんのことを思い出しました。
過去の記事に貼っていたリンクは切れているのですが、新しいものがあるので、そこにリンクを貼り直します。
また、こちらにもリンクを貼っておきます。
彼女の場合、手をサポートしてあげれば字が書けることを発見し、クラスの周囲の子どもたちも始め、速い段階でパソコンに移行しています。
(ごめん、ひょっとしたらパソコン移行は早くなかったかも。また入力が難しくなって、文字盤に戻ったかもしれない)
なんせ手を持ってやりとりしている段階で、友達と喧嘩している動画を見たことがあります。
ほんまに言いたいことを言ってたなあ。
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過去に書いた記事