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2024年05月04日

平安時代にうち棄てられた死者は回向されていたのか



 ドラマ「光る君へ」で道端に死骸がごろごろしていたり、悲田院でたくさんの人が死んでいく様子が描かれています。

 では、そのご遺体はどうされていたのだろう。

 今の「光る君へ」は990年代。2024年4月28日に放映された、第17回に「長徳」という元号は995年。

 当時の仏教って、官僧による鎮護護国で、浄土へ行くように、と今際のきわの仏事などしてもらえるのも高位の人たちだけだったろうし。

 道端に転がるご遺体を供養したり、庶民を弔うということはなかったのではないか。そして鎌倉時代の遁世僧あたりから始まったかなと思って、調べてみました。
 
 すると「『お坊さん』の日本史」松尾剛次著(2002)に

P70  空也は、延喜3(903)年の生まれで、若い頃から五畿七道をめぐり、川には橋を架け、道路の整備を行い、野原に棄てられた死骸を見つけては、一か所に集め、油を注いで焼き、阿弥陀仏のなを称えて回向したといいます。

というのを見つけました。


 なお、空也は私度僧だったのですが、活動が認められ、天暦2(948)年に延暦寺で戎を受けています。

 空也は口から六体の仏像の形で「南無阿弥陀仏」を称えて遊行している立像が有名ですね。




「空間としての六波羅」
高橋慎一朗(1992)『史学雑誌』101 巻 6 号 p. 1077-1113,1234

によると

963年 空也、六波羅の地に西光寺(六波羅蜜寺の前身)を創建。

ということですから、「光る君へ」の時代には、西光寺(すでに六波羅蜜寺という名前に変わっていたかもしれない)の僧が回向していた可能性はありますね。

 なお、六波羅は「光る君へ」第9回で直秀が殺され、道長とまひろが埋めた鳥野辺に隣接し、冥界への出入り口と考えられていたということです。

 また「光る君へ」関連で言うと藤原実資の「小右記」万寿4(1027)年12月4日条に

「以別納所米給貧者、(中略)令中悲田病者并六波羅蜜坂下之者数悲田35人、六波羅蜜19人」

とあるそうです。(読み方、音は全然わからないけれど、意味はわかるな)

 で、今調べてみたら、鳥野辺って今の大谷大谷本廟なんですね・・・


posted by kingstone at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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