『ブッダという男ー初期仏典を読みとく』清水俊史著
2023, 12, 10 ちくま新書
2023, 12, 10 ちくま新書
「あとがき」に任期付き研究者であった頃、学会の権威から難詰されて筆を折ったことを書いていて、すごく話題になった本。
まあある意味、邪な興味を持って購入したのですが、内容も面白かったです。
宗教始祖はいずれにしても、神話的なエピソードに包まれており、しかし初期経典(神話)を批判的に読み「歴史的に(政治的に、ではなく)正しい人物像」を描き出そうとする試み。
で、最近よく言われる
・ブッダは平和主義者
・ブッダは業と輪廻を否定した
・ブッダは階級差別を否定した
・ブッダは男女平等を主張した
・ブッダは業と輪廻を否定した
・ブッダは階級差別を否定した
・ブッダは男女平等を主張した
などの言説を「そんなことない」とブッタ切っていく(と言うのは言い過ぎか・・・)。
そりゃ2500年前のインドの人で、当時の常識であるバラモン教の世の中で、「そうじゃない」という別の道を指し示したのだけれど、当時の常識を踏まえた上での、当時の新しい言説なわけで、今の価値観とはまったく違って当然。
それを、今の「私の願い」で曲解すること、特に今の価値観から見て「いい人」として見てしまうことへの諌めの書か。
実際、ジェンダーの問題などにしても、私が子どもの頃、青年期の常識と、現在の世の中の常識はすごく変わってきて、それにつれて私の考えも変化してきているし。
たぶん、私が子どもの頃って今よりめちゃ女性差別者だった。実のところ現在でもやはり無意識に差別している点はいっぱいあると思うけどね。
しかし、「歴史学」か「宗教学」か「宗教(そして運動)」かとなった時、正確性より「思い込み」「意味付け」が大事になることもあるよな。
で、また、現在日本にあるほとんどの仏教宗派・仏教者はそれぞれの祖師の「こうであるはず、こうであってほしい」ブッダ像・祖師像が核となっていて、それは「宗教(そして運動)」と見る時、別に「間違い」ってわけのもんでもないだろうし。
ある意味「世につれ」変化していくのは良いことなのかもしれない。
そういう意味で、最近「イスラームは人殺しを肯定する宗教」という誹りを見ることも増えたけれど、キリスト教も神はめちゃめちゃ人は殺しているし、キリスト教に従って(?)十字軍なんてのもやってるし、確か仏教過激派も人を殺しているはず。日本だったらオウム真理教もあったし。そういう意味では各宗教とも「同じ」なんじゃないかな。
それら各宗教を信じている人が、「人を殺したい」という気持ちを発現させない、「他宗教の人ともうまくやっていきたい」と思える環境を作ることが大事なんじゃないかな。(もちろん、そのためには公権力に出張ってきてもらわないこともあるだろう)
それから面白かったところ。
「無記」と言って、ブッダが質問に答えなかった記述が古い経に見られるのだけど、それは
無記とは、「形而上学的な問題について沈黙を守った」というものではなく、「異教徒によって間違った立てられ方をした質問に対して、ブッダは回答しなかった」というだけのものである。無記が現れる初期仏典においては、「異教徒が投げかけた質問に対しブッダは沈黙をもって対応し、その後、無我などの教えを説く」という流れが基本であることを考慮すべきである。 |
ってことで、何か「スルー」に近いのかなと思いました。
またブッダは現世の身分は「あるもの」と認めていたみたいなんだけど、バラモン教ならそれを「生まれ」のせいにしていたのを、「行い」によって人の貴賤が決まるとした。
ここでの「行い」とは生業としての行為のみならず、未来に何かの果報を生み出す業(カルマ)が含意される。四つの階級のいずれに属していても、善を行えば世間から称賛され、来世では楽の享受する。逆に、どの階級であっても、悪を犯せば世間から疎まれ、さらには来世では苦を忍受する。 |
「業」って言葉、「業による因果応報」とか「業病」とか何か悪い意味で使われがちなものだけど、そのものには善悪とか無く、「行動」なわけね。
なんか、それが ABA の ABC分析において、B(Behavior:行動) をついつい「問題となる行動」ばかりを当てはめがちになる(本当は、善い行動も、良くも悪くも無い行動も B に入る)と何か似てるなあ、と興味深かったです。