過去の記事61+α(ごめんなさいは奥が深い)
この記事の下のほうに書いてあるエピソードをもう少し詳しく書いてみます。
この記事の下のほうに書いてあるエピソードをもう少し詳しく書いてみます。
実はこれ、丹波篠山で、宴会をしていた時のことでした。
広間で図のように、大人も子どももそれぞれの膳を前にして、食べ、飲み、談笑していました。宴もたけなわになり、子どもたちは食べ終わって遊び始めました。
※図はクリックすると大きくなります。
A君はかなりかたよりの強い自閉症。いろいろな意味で障害は重いお子さんでした。小学校6年生くらいだったかな。元々は孤立型です。下手にこちらが音声で関わったり、いらぬのに身体介助しようとしたりするとパニック(癇癪)を起こし、場合によっては破壊などもしかねないお子さんです。
B君はどなたかの兄弟児さん。まだ就学前の小さなお子さんでした。
そのうちにB君がA君の側に行って、A君に軽く飛びかかる、A君はそれをがしっと受け止めて少し反り、ポンと落とす、B君は大笑い、というのを繰り返して遊び始めました。
それを私はびっくりしながら見ていました。A君が人と関わって遊んでる!
そのうちにB君がA君の側に行って、A君に軽く飛びかかる、A君はそれをがしっと受け止めて少し反り、ポンと落とす、B君は大笑い、というのを繰り返して遊び始めました。
それを私はびっくりしながら見ていました。A君が人と関わって遊んでる!
やはり、その場にいた人たちの作り出している雰囲気というのもあったのでしょう。
ところが、A君は体の使い方も不器用だし、力の入れ方も適切な強弱がわかりづらく、B君がこけて(転倒して)しまいました。B君は大泣きしながらお母さんの元へ行きました。
その場にいた人たちは、誰も特に動きに変化はなく、談笑していました。
しかし、A君は少し落ち着きなく動きまわり、パニックになりかけの雰囲気になりました。
するとsyunさんが立ち上がり、A君の側に行き、たぶん音声言語なしで軽い身体介助でB君親子の側に行き、(ここで「さあ、謝るで」とか言ったかどうかは覚えていない。と言うかあっても聞こえないくらい小声だったでしょう)一緒に深々と頭を下げ「ごめんなさい」と、これは周囲にも聞こえる声で言いました。
その後はA君は落ち着いてその場に居ることができました。
syun さんが席に戻って来た時に、私は
「すごいね。でも、なんで一緒に行って謝ろうと思ったの?」
と尋ねたら
「A君が、どうしたらいいかわからなくて困ってる、と感じたから。他の人は気づかなかったみたいね」
と言い、私はまた
「すごいね」
と返しました。
これは学校などでもよく指導(?)される「ごめんね」「ああいいよ」と形だけやりとりさせるものとは違う、ということはおわかりになるでしょう。
また、最後の syun さんと私のやりとり。「褒める」ということに関して、私と syun さんは、周囲に説明する時に違いがありました。
syun さんは「成人は褒めるな(失礼やろ、というニュアンスで)」
私は「成人であっても褒めたらええやん。心の底から思った通りに」
・・・たぶん同じことを言ってるんですけどね。
指導しようとか、こちらが上で相手を下に見て褒めるとかいうのは、(子どもに対してもだけれど)成人に対してはすごく失礼。しかし、心の底から「すごいな」「頑張ってはるな」「こういうとこいいな」とか思ったら素直に口に出していいと思うのですね。
で・・・この「ごめんなさい」の時、syun さんはすごく褒めてほしそうに私には見えました・・・
syun さんの場合、やってることのすごさ(成果の大きさ)に比べて、褒められることの総量はすごく少なかったんだろうな、と思います。もちろん一部の人からは強く支持されてましたが。
視覚的・具体的・肯定的と言うけれど、障害の有無には関係なく、大人も子どもも肯定的(承認)に関わってもらえるの、大事だと思います。
私自身は、とても褒めて欲しいですね。