これ、題名からほぼ提言みたいなことを書いてあるのかな、と思い、持ち歩いてはいたものの長い間読まずにいました。
読んでみてびっくり。特別支援学校だとか、福祉事業所で働こうだとか、このあたりを学ぼうと思う学生とかの必読論文じゃない?なんで誰もそういうことを強調して私に教えてくれなかったんだろう?
って、そのあたりを勉強したくて大学院に入り、3年も過ぎてるのに、わかってなかった私の勉強不足か・・・(まあ自覚はある)
しかも2001年に出てる・・・つまり20年以上前に出ているのに、ここに書かれていることがなぜ特別支援学校などで常識になっていないんだ?
proactive:先のことを考えた、事前に対策を講じる
reactive:受け身的な、待ちの姿勢の
1.行動主義とQOL
行動主義の枠組みと価値観
応用行動分析では行動は環境との相互作用と考える。なので
「同様に「障害」というものも、個人が持つ属性(impairment)として捉えるのではなく、そのような行動成立の不全の状態として捉える。従って「障害」への対処も、個体の側の状態を変化させ環境へ適応させるという、一方的な治療・教育的な発想はとらず、あくまで個人と環境との関係性を修正することによって改善しようとする。」
(引用には□枠を使おうと思ったのですが、今日はなぜかうまくいかないので「 」で)
そして"正の強化"を提示するのは基本であるとしながらも
「しかし、行動分析学の基本的作業方路は、「正の強化」というものを、本人が現状社会に適応するまで一時的に使用するという「手段」としてのみでなく、それを個々人が生活の中で常に得られるよう環境設定の側に配置すべきという、むしろ「目的」として考えるものである。」
で自発的な行動というものは
「環境側に「正の強化」を配置するということは、対象者が一方的に、何か好ましいものを「与えられる」(given)ということではない。あくまでも本人の行為によって「獲得する」(get)ことにより、さらに当該行動が継続されるという状態を作ることである。」
なるほどなあ。
QOL
指標
1) 生活環境側の物理的社会的設定の尺度
(問題となるのは、個人の好みなどが希薄になりがち。→他の誰もやってないから我慢しろ、とかかな)
2) 個人の主観的な満足度の尺度
(問題となるのは、例えば「この施設のご飯は美味しいですか?」と尋ねた時「おいしいです」と答えたほうが、社会的に強化を受けやすい)
行動的QOL
第3の尺度
行動的な観点からQOLを拡大するという作業は、「正の強化を受ける行動機会の選択肢を増大する」という形で表現される。
行動的QOLの3つのレベル
@まず「(選択性はないが)正の強化を受ける行動」を成立させる段階
(PECSRのフェーズ1やね)
A選択肢があり選択できる段階
B既存の選択肢を本人が否定できたり、本人が新たな選択肢を要求できる段階
これが2001年に語られてる。
私が昔勤務していた知的障害養護学校には@〜B全て無かった。
通常校より教師が圧倒的に多い(通常校なら1:40と養護学校1:3、そしてたいていは運用で1:2)せいで、通常校なら選択させなければうまくできないような場面でも、無理やり人手に頼って選択させないで「これをやれ」で運営していた。(1例をあげれば、通常校なら当時給食で苦手なものが出たら量を減らしたり、食べないという選択肢も行われていたが、私の勤務していた養護学校では無理やりスプーンを突っ込んでも食べさ、完食させていた)
授業でも、教師が「こういうのが授業」というものに、人手を頼って参加させていた。
現在の特別支援学校はどうなんだろう?
なお、(この論文とは無関係だけれど)こういうことを目で見える形にしたのがおめめどうの
「えらぶメモ(そのたバージョン)」(2020年頃にできたかな?)であり、否定(拒否)については、おめめどうのセミナーではその重要性を繰り返し繰り返し言っている。
で、当たり前かもしれないけれど、望月さんは応用行動分析家として、「行動の選択機会」で考えると、客観的に測定できるメリットをあげておられる。
なお
「個々人の選択性の拡大という作業は、可能な部分からスタートすることができ、その実現は、当該組織の職員の環境改善行動自体を支える「正の強化子」となるであろう。」
これは、「この子(この方)はこういう物(こと)が好きそうだな」というのを見つけて、実際に生活のちょこちょこっとした部分で始められるということなのだけど、結構そういうことしちゃいけないんじゃないだろうか、と思われたり、「この子(この方)は何が好きなんだろう」ということを判然とさせるような意思表出の方法が無い、として諦められたりしがちなもんだろうな。
2.重度障害を持つ個人における選択決定(choice making)に関する実験例
まず先行研究を概説したあと、ご自分の関わった例を2つ出している。
1)聴覚障害と思われていた成人女性
・成人女性
・重度知的障害
・雑誌のページめくりなど触覚を楽しむ
・周囲で音を出したり、名前を呼んでも反応せず、聴覚障害と思われていた
・本人にとって特に不快とも思えない課題の指示でも急に泣き出す
約1年かけて「ドライブなら車のキー、散歩なら帽子を机に置き、離れた場所から接近して1点を選択」という方法で選択できることが確認できた(というか、シェイピングできた、と言ったほうがいいのかな?)。
そして、活動の終わりにはノートを選択することを、最初は指示して教える。これが「終了(あるいは「しない」)」の合図となる。
これらの活動で「カセットテープで音楽を聞く」ことが好みであることがわかる。つまり聴覚障害ではなく、音に反応しなかったのは、わけのわからないことを指示されることからの逃避の表現であったと考えられる。
またウーロン茶と苦手な運動訓練とノートの選択肢の場合、ウーロン茶を飲み、ノートを手にとりにこやかに(泣かずに)セッションを終了した。
なお、セラピールーム(?)で音楽を楽しみだしても、居住棟でスタッフがテープを用意しても逃げていたが、本人が曲を選択するようにすると、職員や他の施設居住者と音楽が楽しめるようになった。
2)強度行動障害の30歳男性
・知的障害(とは書かれていないが、12歳から知的障害児施設に入所しているので)
・破衣
・裸で過ごす
・破壊
・放尿便
・異食
このような方への対処の問題点。
・行動問題により個室管理(要するに閉じ込められていた?そして記録を見ると放尿便はこのために必然になったよう)
・マンツーマン(責任を負わされた職員はリスクを犯したくなくなる。そして全面受容(やりたいほうだい)か強制(虐待)に陥りやすい)
・他の利用者の選択機会を増やすためにも、この人は閉じ込められがち
対応
・部屋の施錠を解く(本人の自発的行為の機会を保障する)
・個室外で(たぶん他の方とも一緒の)「コーヒータイム」への参加
・「選択箱」を用意し、様々な活動に関連する物品を選択し、活動できる
結果
・排尿失敗数の減少
・着衣時間の伸び
・破衣の日常選択場面での消失
ある意味、当たり前のノーマライゼーション(社会参加)ができることによって行動が落ち着いた。(勉強させたり、SST で教えたりしたわけじゃない!)
3.行動的QOLの拡大作業が示唆するもの
Whitaker(1989)の知的障害を持つ個人のQOLを決定する変数
1.個人の行動に関する要因
(a)スキルと能力のレベル
(b)適応的な活動のレベル
(c)ネガティブな行動のレベル
2.環境・制度に関する要因
(d)快適度、食事、健康などの観点から見た物理的環境の条件
(e)その地域のメンバーと交流したり、施設を利用したりする機会が与えられているかどうか
(f)有益な活動の妥当性と総量
(g)選択の機会
(h)その社会の貴い一員としてどの程度扱われているか
そして「(g)選択の機会」の重要性を述べている。
望月さんのまとめ(?)
「行動的QOLという枠組みは、障害を持つ個人の「障害性」(impairments や disablities)を改善し、その結果として「生活の質」を高めるという「能力のボトムアップ」の展開を想定したものではない。現状の障害性のままに、その障害の軽重にかかわらず、行動の選択、つまり環境あるいは社会的参加の決定権を本人に委ねるというものである。その意味では、個人における個別の行動の成立としての「権利のボトムアップ」をはかるものであると表現することもできよう。」
すごい・・・
私が望月さんに関連して書いた記事
いずれも1998年度末(1999年3月の記事)