これは先日の「応用行動分析学における分析に何が起こったのか」を読んだ時に、中で 『JABA』(応用行動分析学雑誌)の目的について考え、応用行動分析学を「社会的に重要な問題」に適用することに専念させたと論文として挙げられていた論文です。
Social validity: the case for subjective measurement or how applied behavior analysis is finding its heart.
社会的妥当性:主観的測定の場合あるいは応用行動分析学はどのようにその心を見つけつつあるのか
Wolf, M. M. 『Journal of Applied Behavior Analysis』1978, 11, 203-214.
社会的妥当性:主観的測定の場合あるいは応用行動分析学はどのようにその心を見つけつつあるのか
Wolf, M. M. 『Journal of Applied Behavior Analysis』1978, 11, 203-214.
で、大爆笑したのが
We came upon another method from, of all places, the Rogerian counselling psychologists. 私たちは、よりにもよってロジャース派のカウンセリング心理学者たちから、(今までの客観的データで教える以外の)別の方法を見つけた。 |
ってところでした。
まず、心理学は内観が基本的な方法だった時代があり、それではいかんやろと客観的なデータで研究しようと行動主義や行動分析学が勃興して来た。それで応用行動分析学雑誌『JABA』が創刊された。
しかし、客観、客観といっているのに、それではすまないことがいろいろ出てきた。
まずはボブ・ジョーンズとネイト・アズリンの研究。吃音者の発話を単純で規則的なビートに同期させることで吃音をほとんど無くすことができた。しかし人によっては「人工的」と苦情を言われた。そこで拍数をいろいろ変えたところ2秒から3秒の拍数で最も「自然に」聞こえることがわかった。
のだけど、「自然」って何やねん?それってすごく主観的じゃね?というわけ。
(これ1978年だからそう言われるけれど、現在(2024年)では、「どれだけ自然に聞こえるか」のパラメーターはたぶん明確にわかってるんだろうな。)
Behavioral engineer-ing: stuttering as a function of stimulus duration during speech synchronization.
Jones, R. J. and Azrin, N. A. 『Journal of Applied Behavior Analysis』 1969, 2, 223-230.
Jones, R. J. and Azrin, N. A. 『Journal of Applied Behavior Analysis』 1969, 2, 223-230.
なお、検索したら、AIによると
また、40%の子どもと90%の青年期の吃音症者は、メトロノームや音楽の刺激とうまく同期できないことが示されています。
だって。
次に「ケラー式個別指導システム(PSI)(これっていわば公文式みたいなものを想像するといいみたい)」の研究をしていた人たちが、 PSI を受けた学生が対照群より成績が良かった、という論文を出して来たのだけど、そこでそれぞれの学生に「自分たちのコースがどの程度好きか」を尋ねていた。しかし、それでいいのか?ABAの使い手は相手が好きであろうが、嫌であろうが最善のものを提供しないといけないのでは?と疑問を持った。
最後に「社会的妥当性」の論文を書いたモトローズさん自身が関わった、「アチーブメント・プレイス研究プロジェクト(the Achievement Place Research Project)」での話。
アチーブメント・プレイスというのは非行少年のためのグループホームで、そこの養親に対して、他の養親が関わり方を伝えるというプロジェクト。ティーチング・ファミリー・モデルと言われる。
で、やってると参加者が「適切なスキルはこれだ、と言うけれど本当か?」みたいな質問がよく出てきて、次に違う場所(コミュニティ)でやろうとした時は、コミュニティから即「解雇(fire)」されてしまったと。
つまりいくら自分たちが「これがいい」と言っても受け入れてもらえなかったわけ(「これがいい」という実感もわかなかったのだろう)。
で、
The message we seemed to be getting was that "social importance" was a subjective value judgement that only society was qualified to make. 私たちが受け取ったメッセージは、"社会的重要性 "は主観的な価値判断であり、それを判断する資格があるのは社会だけだ、というものだった。 |
そして
If our objective was, as described in JABA, to do something of social importance, then we needed to develop better systems and measures for asking society whether we were accomplishing this objective. The suggestion seemed to be that society would need to validate our work on at least three levels: 1. The social significance of the goals. Are the specific behavioral goals really what society wants? 2. The social appropriateness of the proce-dures. Do the ends justify the means? That is, do the participants, caregivers and other consumers consider the treatment procedures acceptable? 3. The social importance of the effects. Are consumers satisfied with the results? All the results, including any unpredicted ones? We have come to refer to these as judgements of social validity. JABAに書かれているように、私たちの目的が社会的に重要なことをすることであるならば、私たちがその目的を達成しているかどうかを社会に問うための、よりよいシステムや尺度を開発する必要がある。社会は、少なくとも3つのレベルで私たちの仕事を検証する必要がある、ということだった: 1. 目標の社会的意義。具体的な行動目標は本当に社会が望んでいるものなのか? 2. 手続きの社会的妥当性。目的は手段を正当化するか? つまり、参加者、介護者、その他の消費者は、その治療法を受け入れられると考えるか。 3. 効果の社会的重要性。消費者は結果に満足しているか?予想外の結果も含めて、すべての結果に満足しているか。 私たちはこれらを社会的妥当性の判断と呼ぶようになった。 |
となったわけです。
しかし参加者から「温かさ」が大事と言われ「人間関係が大事」と言われてもどうすりゃいいんだ、となった時に、冒頭の「ロジェリアンから見つけた」という話になるわけです。
HaaseとTepperは、1972年にJournal of Counseling Psychologyに論文を発表した。多くのロジアンと同様、ハーゼとテッパーは「共感」に関心を持っていた。彼らは、訓練中のカウンセラーをよりよく教え、評価できるようにするために、共感にはカウンセラーのどのような非言語的行動が関与しているかを調べることができるかどうかを知りたかったのです。彼らは、アイコンタクトのレベル、体幹の傾き(前方または後方)、体の向き(クライエントに向かっているか、クライエントから遠ざかっているか)、クライエントとの距離、様々なレベルの「共感的」言語メッセージなど、様々な非言語的要素を含むカウンセリングのシミュレーション状況を設定した。次に、ビデオに録画された抜粋が経験豊富なカウンセラーに提示され、カウンセラーはそれぞれの抜粋で提示された全体的な共感の量を評価した。その結果、アイコンタクト、体幹の傾き、距離、言葉の内容はすべて、共感の判断に関係していることがわかった。著者たちを本当に驚かせた一つの結果は、非言語的行動が言語的行動よりも共感の判断に2倍以上を占めていたことである。中程度にしか共感的でないことを言っているカウンセラーが、アイコンタクトや体幹の前傾姿勢をとり、クライエントの近くにいた場合、共感性が高いと判断されたのです。 |
Nonverbal components of empathetic communication.
Hasse, R. F. and Tepper, D. T.『Journal of Counseling Psychology』1972, 19, 417-424.
Hasse, R. F. and Tepper, D. T.『Journal of Counseling Psychology』1972, 19, 417-424.
でもってモトローズさん、こんなことも書いてるんですが、
私たちの文化において最も重要な概念の多くが主観的なものであることは明らかであり、おそらく最も重要なものでさえある。マルティン・ルターは、当時流行していた歌や踊りのメロディーにプロテスタントの賛美歌 を合わせたことを厳しく批判された。彼はこう答えた。"なぜ悪魔に最高の曲をすべて使わせなければならないのか?"と。では、なぜ人間の目標や社会的なベストをすべて他の者に与えなければならないのか? |
研究者や専門家やエリートを悪魔に例えてるなあ・・・
まあいわばセッション参加者や、サービスを受ける側、当事者抜きで決めるな、という話でもあるな。
しかし、後半でいろいろな課題にも言及してはる。
客観的尺度が良くなっても主観的尺度は良くならなかった例。
これは、例えば「株高になった」「GDPが拡大した」が生活実感は苦しくなったとかがわかりやすい。
ある非行防止プログラムで参加した青少年も親も「受けて良かった」と答えたにもかかわらずプラスの影響は無かった。
これらには下記のような問題が考えられる。
1.偶発性の問題。付随して周囲の他の条件、利益相反があってデータが偏るなども。
2.測定していない別のものの影響。例えば癇癪を測定していて、癇癪は減っていないが、暴言が減ったので親御さんは効果あったと判断したなど。
3.自分自身のことはわからない、という問題。
まあそやね。
しかし、社会的妥当性という概念がなぜ出てきたか、ということがわかってめちゃくちゃ面白かったです。