※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2024年02月26日

「応用行動分析学における分析に何が起こったのか」を読む



W. David Pierce and W. Frank Epling
The Behavor Analysis. 1980 Spring; 3(1): 1–9.

 もちろん英語なんかで読めないから、DeepL で翻訳し、Readable で整形して読みました。

『応用行動分析学』島宗理著で社会的妥当性のところを読んでて、1980年代に課題解決を優先し、制御変数の分析がおろそかになっているのじゃないか、というので大きな議論になったということで紹介されていました。

 ざっと見て「基礎研究」か「応用(研究)」か、という議論みたい。

 もともと行動分析が「行動の原理」を明らかにし、そのために「実験心理学」が重要。でも、社会的に応用行動分析家が様々な課題解決に有用と認められてきて、その課題解決のために分析がおろそかになってないか、お金がつくようになったので、より応用分野を重視しすぎるようになったのではないか、それで科学と言えるのか、ということなのかな。

 まあ、私は実践の人だから、「科学かどうか」よりも「課題が解決できるかどうか」を重視してしまうけれど。

 しかしこの論点が、アメリカで PBS を進めようとする団体と ABA をやっていこうという人たちの団体とが別れる原因でもあるのかな?

 あと、キーワードとなると思うのだけど contingencies という単語がよく出てくる。

 意味は「将来起こりうる事; 不慮の事故, 不測の事態、偶然性、臨時出費」とかになってる。
 これもよくわからないなあ・・・

These contingencies account for Wolf's (1978) conclusions in his article on the social validation of behavioral ap-plications. It is the "subiective value judgment of society which validates applied behavior analysis and is the basis of its social importance (p. 11). With the focus on cure-help and behavioral im-provement, this kind of definition of social importance seems to make good sense. However, it takes applied behavior analysis outside of the experimental analysis of behavior. Notice the acceptability of subjective report and Wolf's attempt to legitimize subjective measures!

このような偶発性は、Wolf(1978)の行動分析学の社会的妥当性に関する論文における結論を説明するものである。それは「応用行動分析学を正当化し、その社会的重要性の基礎となる社会の主観的価値判断(p.11)」である。キュアヘルプと行動改善に焦点を当てれば、このような社会的重要性の定義は理にかなっているように思える。しかし、これは応用行動分析を行動の実験的分析の外に持ち出すことになる。主観的報告の受容可能性と主観的尺度を正当化しようとするウルフの試みに注目してほしい!


 ここに出てくる「社会的重要性の基礎となる社会の主観的価値判断」に、本人(当事者)の思いが反映されているか、本人の QOL を上げるのか、というあたりがすごく問題やろな。本人抜きの社会であっていいわけがないので。(また当然社会抜きの本人も有り得ない)
も読んでみたい。
posted by kingstone at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 特別支援教育や関わり方など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック