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2023年10月15日

『組織の不条理 日本軍の失敗に学ぶ』菊澤研宗著




「完全合理的な人間」を仮定してもそんな人いないし、「限定合理的な人間」がどう組織の中でふるまうか、を研究するのが「新制度派経済学」。

確認しようと、Google で検索したら生成 AI がこう答えてくれた。

「新制度派経済学(New institutional economics)は、経済学の対象と方法を拡張し、人々の経済活動を支える社会的規範や法的規則などの制度的側面を解明しようとする現代経済学の潮流です。

 新制度派経済学は、人間の限定合理性や情報の不完全性・非対称性から出発し、経済内に存在する様々な制度は市場の機能を阻害しているのではなくむしろ補完しているのである、ということや、現実の市場のあり方が各国ごとに大きく異なることなどを、理論的に説明することができます。

 新制度派経済学は、経済学やファイナンスにおけるさまざまな研究成果を採り入れつつ、政治的になされるような組織の意思決定についても分析しようとしています。

 新制度派経済学は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヴェブレン、ミッチェルらによって創始された制度派経済学とは全く異なる流れで、基本的には主流派経済学の発展の中で出てきた潮流です。」

だって。

 著者の場合、「取引コスト理論」「エージェンシー理論」「所有権理論」で日本軍の失敗を見ていくわけ。

 読んだけど、よくわかっていない。でも言葉にしてみると・・・

1.取引コスト理論
 組織全体で大きなコストを下げる(つまり、そうなることが組織にとって一番いい)よりも、自分に近い狭い範囲で一番コストがかからない行動を選ぶ。

2.エージェンシー理論
 プリンシパルとエージェントという書き方をしてはるのだが、株主と経営者、経営者と従業員とかいうこと?
 で、情報の非対称性や、利益相反があるから、組織のルールやガバナンスが必要になるよね、みたいなこと?

3.所有権理論
 所有権を明確にするコストよりも、所有権による利益が大きい場合のみ、その周遊券の制度は作られる。

 著者の場合は、太平洋戦争の戦史の中でそれを説明していかれる。

 あの最低の愚かな作戦とされるインパール作戦も、それ以前からそんな作戦を考える人がいたけれど、コスト・パフォーマンスで見れば無理に決まっているので、合理的に考える人たちは「黙っていてもそんなわざわざ損になるもの実行されないだろう。反対意見を述べると敵を作る(個人的コストが高くなる)しな」と考えて反対より沈黙を選んだ。つまり一人ひとりにとっては合理的であった。

 で、牟田口も、最初は賛成意見を主張しなかった。しかし、時期が後になると自分の軍功がどんどん色あせてくる。ここは一発インパール作戦を成功させて自分の軍功を立てようという「全体の利益」より「個人の利益」を優先し、命令を出せる立場だったから命令したと・・・自分ひとりについては合理的だったと。

 なんか結構納得できます。

 しかし、戦史的というか戦術的というのか、その立場で見ると、硫黄島も沖縄もあれだけの犠牲を出したのだけど「成功例」なんだとか。それによって「本土攻撃を遅らせる」という目的は果たせたので・・・ってことだけど「成功例」?!

 まあそれが戦争の現実というやつなのかな。でもそんなのやだな。最初から植民地を作りにいって、無理な経済発展を狙わなかったら良かったのに、と思うけれど、当時の「合理的理論」から言うとそれは間違いになってしまうのかな?

 でもなあ、逆に攻撃される方で言うと、現実に某国や某国が日本に対して武力を行使してくる可能性は、ウクライナを見ると「有り得る」と当然考えなきゃいけないと思う。その時、単純に「戦いません」なんて Give up できるはずもなく、戦わないとしゃーないんだろうけど。

 まあよくわかんないんだけど、取引コスト理論だけはよくわかる。

 私が「威嚇と暴力を基本的教育方法とする」知的障害養護学校に居た時、何度も書いてるけど教師全員が「威嚇と暴力当たり前」と思っていたわけでなく、半分くらいは「それじゃいけない」と心の中では思っていたと思う。

 しかし、私が職員会で、「今までとやり方を変え、◯◯する時は□□するようにしましょう」と提案しても誰も賛成意見は述べない。他人のいないところで小声で「キングさんの意見がいいと思う」とかは言うのだけど。

 職員会で「威嚇と暴力」を使っている声の大きな人に対する反対論に賛成することは、その人達にとってコストが高すぎたのよね・・・

 実際、私は「威嚇と暴力」を使っている教師からの攻撃にさらされる(矢面に立つ、という言葉が実感できた)という多大なコストを払っていたし・・・

 それでも5年目あたりから、ぽつぽつと賛同の意見を言ってくれる人も出てきたか・・・

 エージェンシー理論で言うと、プリンシパル(私の学校の場合、管理職かな?)が具体的な「こうあるべき」という価値を指し示せなかった、というあたりは大きいか。もちろん「体罰はしないように」という指示は朝礼のさいに言っていたが、少なくとも威嚇で子どもたちを統制していた人が指導力のある教師と評価され、教育委員会に引き抜かれていったりしてたし・・・つまり現場の「威嚇や暴力」は校長からはなかなか見えない・・・

 これはガバナンスを守る方法が当時無かったということか。

 いやそれ以前に、「どうしたら子どもも大人も楽に楽しく暮らせるか」という方法を誰も知らなかった、というのが大きいかな。私も喧嘩するだけじゃなく、校内研修、学部研修、自主研修会などで広めようとは努力していたのだけど。
posted by kingstone at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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