第6章 しくじり思春期 母子分離の重要性(奥平綾子)
奥平綾子さんは鰍ィめめどうの代表取締役。
利益相反について:私はおめめどうフェローです。
利益相反について:私はおめめどうフェローです。
それだけに、いろいろ聞いていたのですが、今回、これを読んでめちゃくちゃ得心でき、私もわかってなかったなあ、という部分がたくさんありました。
中学校への入学と過干渉
小学校卒業前、困った行動が出始めてお医者さんに相談した頃のことを思い出して書かれているのが、
「(お医者様が)『お子さんにストレスがかかっていますね。何か(式典などの)活動をやめるのも一考ですよ。それに、親御さん、もっと離れて下さい』と。視覚的支援をすることで、参加できるものは増える。けれども、まだ、筆談コミュも少なく、本人の気持ちを聞くところは甘く、『過剰適応』になっていた」
(当時、奥平さんは「学校は絶対休ませません」と言ったり書いたりしてはって、なんかすごいな(褒めてるんでも非難してるんでもなく、淡々と字義通りに)と感じていましたが、そんなことが進行していたんですね)
母子分離の難しさ
(中学以降、激しいトラブルを起こすようになり)「当時はなぜそれが起こるのかわからなかった。ずっとしてきた視覚支援や選択活動、そしてコミュニケーションに、何か問題があるのだろうか?周囲の目もあり、私は不安だった。結局、一生懸命な母親が陥る典型的な例なのだと思う。熱心な親ほど「母子分離」が下手なのだ。「私がいなくちゃ」にますます追い込まれていった。」
(もちろんその後も、視覚支援や選択活動に助けられることは多いわけですが)
(現状では「母子分離」と書くしか無いところがありますが、ここ数年の動き流れを見ているとこれも「親子分離」となっていくかな?お父さんが子育てに参加されている例も増えてきた感じがありますし)
年齢相応に尊重されない
これは今の特別支援学校どうだろうか?高等部の生徒でも幼児や小学生みたいな扱いをされる、ってことなんだけど。今はそういう場面が少なくなってきているのを期待したいけれど。
「エスパー」の罠
(高等部を退学する時に、学校が嫌な理由に「先生がしっぱいするのがイヤです」と書かれたそう。この話もよく聞いていたので、「学校の先生が何かをスムーズにできなくて嫌だったのかな」くらいに思っていたのですが、どうもそうではなかったようです)
「自分が『お茶がほしいな』と思ったとして、『お茶がほしい』と口に出さなくても、お茶が出てくるのだ。それが続くと、いずれこう考えるようになる。『お母さんは、僕が思っていることは、全部わかっている』と。となれば、車を運転しているときに、彼が『右に曲がってほしいな』と思っているとして、私が左に曲がると、『お母さんが失敗した〜』となるのだ。」
(つまり、「考える」→「要求する」→「実現したり、しなかったり」であるところ、「考える」→「実現する」が続くと同一性保持が起こってしまい、周囲が特に間違ったり失敗したりしていないのに「○○が失敗した」と他人の責任にしてしまう。自分の責任を引き受けられなくなっているわけですね。すごく奥が深かった・・・)
(だから「エスパー」をして先回りして何かをしてはいけない、という話になるわけで。また本人の責任なのに、勝手に後始末をしてはいけない、という話にもなるわけで。しかしだからこそ自分で判断する元になる情報を視覚的支援を使って正しく伝えることが大事になるわけだな)
「仲間はずれ」をやめる
(これは樋端さんの「オープンダイアローグからの学びとツールの活用」のところで書かれていたことを彷彿とさせる)
(また本人が暮らしていくためのお金の判断(おめめどうの言う「予算軸」)を育てていくのに大事なことも書かれてます)
「しくじり思春期」を経てわかったこと
「障害があるから、特別な思春期がやってくるわけではない。定型発達の子どもたち、いや、自分自身と『同じ思春期』がやってくるのだ。ただ、その子が自閉症・発達障害・知的障害であれば、その特性に沿った対応(注意しなければならないところ)があるという、それだけのことだった。」
(メモで書き出したところも、前後に詳しく他のことも書かれていますし、他の方の部分も勉強になる(めちゃつらくなるところも・・・)ので、是非、ご購入して下さい)