読書メモ
第5章 対話を止めるな 人権侵害が行動障害を生む(樋端佑樹)
本田先生は「自分がかかわってきた人で強度行動障害になった人なんて見たことないけどなあ」とおっしゃっていた。
(めちゃよくわかります。適切な対応を継続していたら、思春期、成人期になっても起こらない。起こらないから「この取組がいい」と証明しづらい。そして「あの人は障害が軽かっただけ」と言われる)
佐々木正美先生がおっしゃっていたことであるが、母性と父性はどちらも大切だが、大事なのは順番である。
(これ、今後は言葉を変える必要があるだろうな。母性→受容、承認。父性→教える、訓練(?)、外部の価値観とのすり合わせ(?))
早期から家族を取り巻く強力なチームが無いと無力。
(吉川先生のおっしゃる「とにかく人手を集めること」ですね。別に専門家・職業支援者のみの集団とかでもなく、保護者同士であったり、爺ちゃん、婆ちゃん、ご近所の人とかでも)
チーム内外での対話が継続されていないと、ババ抜きのように誰かが苦しみながら丸抱えするか、結局、自分たち以外の誰かに丸投げすることになる。
(私は爆弾ゲームの爆弾と言ってます。もちろん「この子は爆弾ゲームの爆弾ちゃうぞ!人間やぞ!」という文脈でです)
チームとして生き残り、できるだけ課題を社会の中に広く問い、開いていくことが大事なのだ。
(別のところで、地域の連携があまり無かったところで、荒れる当事者さんを何とか支援しなきゃ、ということで集まり、連携が形づくられていった例が出てきます)
オープンダイアローグからの学びとツールの活用
当事者抜きで当事者のことを決めない、相手を変えようとしない、結論や落とし所を想定しない、多様な声を共存させる、それぞの主観をテーブルに並べてみんなで眺める。そういうコミュニケーション様式である。見えていない部分が見えると、無意識であっても歩み寄りが始まる。落とし所を想定せず、対話を継続することだけで関係性の修復プロセスが動き始めるのだ。(中略)
問われているのは専門性か関係性か。どちらが先というものではなく、相手をリスペクトし、相互性、対等性をもった対話が継続できているかどうかなのだろう。(中略)
たとえば、大荒れで立てこもっていた本人も衝立の裏から自分の支援会議に参加し、となりにいる私と筆談や選択肢で言葉を探し、親に対する思いを直接打ち明けられたところから、周囲のまなざしが変わり、本人の主体性を尊重できるようになった。その後、家族や支援者とも LINE や筆談でやりとりするようになり、落ち着いた暮らしが維持できてきている。
問われているのは専門性か関係性か。どちらが先というものではなく、相手をリスペクトし、相互性、対等性をもった対話が継続できているかどうかなのだろう。(中略)
たとえば、大荒れで立てこもっていた本人も衝立の裏から自分の支援会議に参加し、となりにいる私と筆談や選択肢で言葉を探し、親に対する思いを直接打ち明けられたところから、周囲のまなざしが変わり、本人の主体性を尊重できるようになった。その後、家族や支援者とも LINE や筆談でやりとりするようになり、落ち着いた暮らしが維持できてきている。
問われているのは専門性か関係性か。どちらが先というものではなく、相手をリスペクトし、相互性、対等性をもった対話が継続できているかどうかなのだろう。
(私も計画相談(相談支援)をしていた時、できるだけご本人にも担当者会に参加して頂けるように努力してきたけれど、まだまだ甘かったかな)
人として対等に付き合える支援者とは
(ここのところが難しいと考えています。私が関わっていろいろ連携し、行動問題の無くなったお子さん。高等部入学から再び行動問題が起きたのですが、教師が対等に関わっていないから、と感じられます。「強制」のほうでなく「言いなり」のほうなんですが・・・しかし「言いなりは良くないですよ」とか言えば、じゃあということで「強制」になりそうだし・・・どっちもちゃうねんけど・・・)
(メモで書き出したところも、前後に詳しく他のことも書かれていますし、他の方の部分も勉強になる(めちゃつらくなるところも・・・)ので、是非、ご購入して下さい)