※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2021年04月26日

「アメリカで“警官の黒人殺害”がこれからも続くと言える「構造的理由」」 を読んで





 畠山さんは、2017年8月よりミシガン州立大学教育大学院、教育政策・教育経済学コースの博士課程に在籍中で、現在もそれ以前も世界中で様々な実践をされている方です。


 ジョージ・フロイドさんが警官に長時間喉を膝で押さえつけ続けられて、殺された事件から警察改革の掛け声が大きくなったことから

そこで今回は、教育改革の見地から、ジョージ・フロイド正義法を中心とする警察改革の問題点を指摘しつつ、教育改革とジョージ・フロイド正義法に共通する問題点から、アメリカの構造的人種間格差が解消される見込みが薄い理由を解説していく

という問題意識で書かれています。

これらの警察改革のポイントをまとめると以下の6点になる。

(1)警察の武器取得・使用の制限
(2)警官への人権研修の実施
(3)警察の仕事を肩代わりできるような地域社会の創出
(4)これまでバラバラだった警察の活動基準に対してミニマム・スタンダードを制定
(5)警官の職務上の免責を制限しつつ、アカウンタビリティを果たさせるための組織作り
(6)アカウンタビリティを果たさせる手段として、警察の武器使用に関するデータベースを整備する


ということなのですが、これらが今までの失敗した教育改革と同じである、と。

(1)クリントン政権からトランプ政権に至るまでの教育改革の一つの肝は、これまで教育の役割を一手に担っていた教育委員会(警察)からその権限を引き離し、州政府・市役所・私立学校・チャータースクールなどにその権限を担わせようとした(警察の仕事を肩代わりできる組織作り)

 う〜〜ん、単純に学びの多様性ができるのはいいことかと思っていた。
 しかし「お金をケチるため」というねらいでやると、どんどん「いい学びの場が減る」「格差が広がる」という結果になるんだろうな。

 また第一感として、相手の人権を抑制する機関としての警察権力は他に渡してはいけないんじゃないか、というのは強く思うな。

(2)オバマ政権におけるコモン・コア・スタンダードの普及(警察活動のミニマム・スタンダード)

 コモン・コア・スタンダード というのは初めて見る(?忘れてるだけか)言葉なので調べてみると


 なるほど。
 学習指導要領みたいなもんか。

(3)ブッシュJr.政権のNo Child Left Behind法・オバマ政権のRace to the Top法において、教員・学校はテストの成績においてアカウンタビリティを果たすことを求められた(警官のアカウンタビリティ)

 No Child  Left Behind法ってのは「落ちこぼれゼロ法」だな。

 私が「おちこぼれゼロ法」に関連して書いたエントリ。





 でもって、第一感としては、「テストの成績」を説明責任の証拠としてもってきてはいかんやろ。

(4)オバマ政権はRttT法の中で、教育に関するデータベースの整備を求めた(警察・司法内でのデータベース整備)
 
 これは?
 しかし、教育に関してはデータベースに入れるデータとして、何が適切か、ってのは大問題だよな。


「問題は資金が足りないこと」という見出しのところで

K-12教育も警察も、欠員を補充できない、低賃金で雇用せざるを得ない、パートタイム雇用に頼らざるを得ない、という状況が広がっている。

 K-12教育というのは、日本の小学校から高校の教育にあたる。

 しかし・・・日本でも教育はパートタイム雇用というか「非正規」の講師が増えているけれど、警察はそんなことないよね。
 警察でパートタイム雇用って、よりやばいんじゃ。

人材の話は追って詳述するが、教育改革においても、資金不足が問題なのか、それとも資金の使い方が問題なのかは、長らく議論の的となってきた。


 あっ、「使い方の問題」もあるのか。
 しかし、もともとの「資金の絶対量」が少なければ、どっちもダメになるよな。


 この論文によって、

この研究は、貧困層においては教育資金不足が問題だということを明らかにしたのみならず、幼児教育の資金が増えるとK-12教育の効果が増加し、K-12教育の資金が増えると幼児教育の効果も増加するという相互補完性を発見した点が重要である。

とのこと。

「人権研修か、警官養成か」の見出しのところ。

教職研修も、教員養成も、英語では「training」と表現され、前者は「in-service training」、後者は「pre-service training」である。そして、研修と養成ではどちらが重要かと言われると養成の方だ。

 で、


によれば

(1)教員は自分が生徒の時に受けてきた教育経験から、こうあるべきという教育像を持っている
(2)養成段階で受けてきたこうあるべきという教育像を持っている
(3)日々教室で実践してきたことから、こうあるべきという教育像を持っている

という、養成前・養成中・養成後の三段階に渡ってすでに作り上げられた教育像を持っており、これから大きく外れたものを今さら受け入れられないということが挙げられる。


ってことですが・・・

 だとすると「特別支援教育」はどうなる?

 過去においては「特別支援教育(障害児教育)」を受けて、そのイメージをもって教員になった人はいないだろう。

 現在そして未来は出てくるかな?

 現場ではもともと発達障害をもった教師はいただろうけれど、その方たちはいわゆる「特別支援教育」は受けてはいない。

 でもって、私の周辺で、「いい仕事をしているなあ」と思う人たちは、私を含めて多くは「診断は受けていないがスペクトラムの色は濃い目」の人なのだが。

白人の子供は白人の子弟のみが在籍する学校で学び、黒人の子供は黒人(+ヒスパニック)の子弟のみが在籍する学校で学んでいるのがアメリカ国の実情である。大学段階になり、初めて白人・黒人が相対することになり、全くもって不十分としか言えないが、異なる人種の人たちとやっていくことを学んでいく。

 なので、そもそも相手の背景に実感や背景が考え及ばない、ということなのだけど、これはインクルーシブ教育に関連してくる話だな。

 しかし、私は「養成」にはあまり期待していなくて、現場の OJT や研修がおおいに必要という意見を持っているのだが。

警察改革法案の中心ともなっている「アカウンタビリティ」という概念は日本語にしづらい。「説明責任」という日本語訳が当てられているようだが、誰が誰をどういう理由により吊るし上げられるか、という4要素からアカウンタビリティは成り立っていると私は考える。このため、日本語一語でこれを表すことは難しい。

 あっ、これは目からウロコだ。

 「誰が誰をどういう理由により吊るし上げられるか」か・・・

 そう言われれば・・・というやつだな。

 しかし、フィンランドのパシ・サールバーグ氏の見解

かつてのフィンランドでは、教員は地域社会の中で信頼されていたので高いパフォーマンスを発揮していたのに対し、アメリカ(・イギリス・世界銀行)は、教員が信頼されておらず、アカウンタビリティで吊るし上げざるを得ないため、高いパフォーマンスを発揮できずに学力的にも低迷している(そしてそれが世界銀行を通じて途上国にも広がっており、「Global Education Reform Movement: Germ」を通じてフィンランドにも侵食してきたため低迷し始めた)。


しかし、氏の議論で興味深いのは、信頼の重要性もアカウンタビリティの枠組み内で捉えることが可能だという点である。


 「信頼」とは「専門家同士の切磋琢磨」

 なるほど。

実は、これはかつての世界に誇る日本の教育にも存在していた。地域社会の名士であった教員は、修養概念に支えられ、子供たちにより良い教育・授業を届けるために自主研修という形で切磋琢磨し合うことが広く見られた。

 だよなあ・・・

 何か、いろいろなことが「高度」になり、却って教員の自由度が減り、余裕がなくなって自主研修ができなくなっているような・・・

 しかし著者は今後については楽観してはるとのこと。

 理由は

 1.バイデン大統領がプロテスタントでなくカトリックであること。
 2.大学でも人種問題に取り組み始めていること。

だって。

 1.はへえええ、だし、2.は「まだ取り組んでなかったんかい!」と思ってしまう。

 じゃあ、日本はどうしていったらいいのかな。
 特に特別支援教育分野は。








posted by kingstone at 11:17| Comment(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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