1207 建永の法難までは書いたけれど、浄土宗としては、その後
1227 嘉禄の法難ってのがあったんですね。
弟子たちが力を持ってきたので、比叡山の僧侶が攻撃して来、かつ法然の墓も暴いたという・・・そして朝廷が取り締まるので、比叡山は攻撃してくるな、という命令が出て、専修念仏禁止令が出る。
隆寛、幸西、空阿弥陀仏が遠流される。
なお、浄土宗西山義(西山派)の開祖、証空は法然の勧めによって天台でも修行をしていたので、天台の一流と見られ、流罪にならずにすんだ。
そこまで攻撃されたのは、阿弥陀如来の前の平等の思想に既存仏教が危険を感じたのかも・・・ここにものすごい思想的な転換があったのかも。(このあたりカトリックに対するプロテスタントみたいな感じがあるよな)
そして、浄土教(浄土宗)には分派がいっぱいできたのは、それだけ「宗教としての生命力」みたいなものがあったのかもしれない。