でも
「公的な僧の位階制度が整い、僧の寺院組織内での出世志向が強まった。その世俗的な風潮に嫌気がさして、寺を出ることを「出世間」と呼び、「出世間」した僧のことを「遁世僧」と呼んだ」
と書いたが、沙弥や聖が住む場を別所と呼んだ。
1133〜1212 法然房源空
9歳(1142?)の時、父戦死。「敵をうらむな」
1147 授戒
1150 黒谷別所の叡空のもとへ
1156 嵯峨、奈良、仁和寺などで法相、三論、華厳を学び、再び黒谷へ
保元の乱(崇徳上皇が讃岐に流される)
1163〜1166 比叡山の内部で武力衝突が繰り返される
1175 称名第一を称え、叡空と対立。比叡山を出る。広谷→吉水
1198 選択本願念仏集を撰述する。
1205 興福寺奏状
1207 安楽坊、住蓮房の事件(建永の法難)
1208 流罪。その途中に室津にも寄る。しかしその年のうちに恩赦が決まり、箕面の勝尾寺に入る。
1212 吉水で入寂。