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2020年08月18日

天皇と「日本」の国号(日本の歴史をよみなおす(全) 網野善彦著 より)




5〜6世紀 畿内の首長の間で、後年の天皇につながる大王(おおきみ)の地位は承認されていたが、まだまだ流動的。

中国で随・唐の大帝国ができ、その影響で律令制度を取り入れようとした。

随 581年 - 618年
唐 618年 - 907年

天皇という称号が安定的に用いられるようになるのは持統天皇から。

天武天皇はだいぶ安定的に称されていたが、天智はまだ。

「日本」という国号はやはり天武・持統の頃からで、天皇という称号とセットになっている。

701年に派遣した遣唐使(これは「馬から落ちて落馬して」みたいな表現?)は「日本の使いである」と唐の役人に述べている。

公の意識
税を安くしろ、という闘争は起きたが、税を無くせ、という闘争は起きたことが無い。

8世紀 大宝律令から始まる律令国家。しかし貴族たちの力は強く、天皇専制ではなく太政官による合議制。
9世紀 薬子の乱を抑える。
天命思想を持ち出し、天皇の権威を正当化する必要は無くなった。
職の体系 それぞれの氏が特定の職能を継いでいく

陰陽寮 → 安倍氏
太政官事務局 → 小槻氏(おづきし。計算に優れる)
天皇 → 天皇家
摂政・関白 → 藤原氏北家

10世紀 ほぼ職の体系の体制ができた
11世紀 職の体系が支配的になる

天皇家と仏教との結びつきは強かった
江戸時代までは火葬であり、陵墓は仏教との結びつきの強い時代は作られなかった。
昭和天皇(たぶん明治も大正も)の葬儀の仕方は明治後のもの。古墳時代の復興。

10世紀 沖縄、北海道だけではなく、東国も天皇の統治から離れようとしていた。

天慶の乱(藤原純友の乱、平将門の乱)

(平将門って東北の英雄みたいなイメージを持っていたのですが、関東、東京近辺の人だったんですね)
「関東」というのが国号のような響きを持っていた。
 西国は天皇支配、関東は武家支配というような形。

13世紀後半から14世紀 天皇家の危機。

大覚寺統と持明院統
北朝と南朝
社会のあり方の大きな変化があり、鎌倉新仏教の僧侶を呼び寄せている



posted by kingstone at 18:40| Comment(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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