第3章 畏怖と賤視
古代
7世紀後半に律令国家成立。
まじめに戸籍に登録しようとした。
その中で
廃疾 → 廃人と言っていいような重い病気の人、身体障害を持つ人
篤疾 → 非常に重い病気の人
他の人と一緒に記載。そして課役は賦課しないことになっており、介護者を決め介護せよ、という原則になっていた。
少なくとも建前では排除していない。
8世紀には全員登録というのが無理になってくる。
国家の規制力が弱まり、浮浪、逃亡する人が増えた。
(課役の負担が大きいため)
浮浪、逃亡する人への対策(救済)のために悲田院、施薬院が作られた。
悲田院出身者(子どもだったのか?児童擁護施設みたいなもん?)は成人後、平民の養子となったので、特段の差別はなかったよう。
悲田院出身者(子どもだったのか?児童擁護施設みたいなもん?)は成人後、平民の養子となったので、特段の差別はなかったよう。
9世紀には予算が無くなり、悲田院の人も稼がないといけないようになる。
そのさいに、鴨の河原の死体処理をさせたことがわかっている。
このあたりで平民の集団から離れることが始まったか。
このあたりで平民の集団から離れることが始まったか。
また他の、官庁に所属していた手工業者を始めとした職能民は独自に集団を作って動き出さざるをえなくなる。遊女もそう。
(って、官って、時代が下ればお金が無くなって、やっていた施策が無理になる、って基本的な形なのかな?)
10世紀、11世紀には身寄りの無い人や重病人を官が支えるのはまったく無理になる。
奥書により、1299年(正安1年)一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草し、法眼の地位にあった画僧の円伊が絵を描いた。
一遍聖絵 非人の救済、非人の信仰
天狗草子 一遍を天狗とし、非人をこきおろす
(解説を読むと、諸宗の僧侶を天狗として笑っているよう)
天狗草子 一遍を天狗とし、非人をこきおろす
(解説を読むと、諸宗の僧侶を天狗として笑っているよう)