「普通に行われている Evidence への訴えはすべて、そのことによってそれ以上遡って問うことが 断ち切られるものであるかぎり、理論的にみれば [ ...] 神託に訴える以上のものではない。」 [Husserl 1992(1936):192(270f.)] |
確かに、そういう感じでエビデンスというものは使われがち。
有無を言わさないために使うというか・・・
(まあ、自分の体験ではこうだから、という言い方で無茶してくる人が多いから、ということはある)
EBE の主唱者。 スラヴィン(Slavin)
ハーグリーヴズ(Hargreaves)
著者は
最近になって、NCLB 法(No Child Left Behind Act)に代表される科学的な根拠を 重視する政策を追い風として、教育の領域でもようやくエビデンスがものを言うようになってきた。 |
と書かれている。しかしNCLB法は学力テストの成績が悪ければ助成を減らす、成績が良ければ助成を増やす、というようなことをして、貧困地区の学校が撤退していかざるをえなくなるようにしていたり、「科学的」とはとても言えないようなことをしているような気がするんだけど。
教育の研究において
「教育において、研究は実践家の必要よりも研究者自身の関心に即して展開されている。そのために研究は往々にして非生産的な方法論論争に巻き込まれ、累積的な蓄積を見ることがない。」
というか・・・実証的とは言えない「ひとりの頭の中にある思想」(例えばルソーとか)の研究になっていなかったか、というのは強く思う。例えば
で、ハーグリーヴズは
こうした不健全な状態を変えるためには、何をいかに研究する かの決定を、これまでのように研究者コミュニテ ィに委ねるのではなく、「ユーザー・コミュニテ ィや政策立案者や実践家が研究プロセスの全域に わたって関与すること」[ibid. 10]が必要である。 |
と主張しているそう。
しかしそれだけでもダメで、1997年頃、私が知的障害養護学校にいた時、本当に困って、私の地域から大学に内地留学した先生方のテーマを調べてみたことがあります。実践に役立つ研究をされた方がいれば、是非教えを乞いたいと思って。ところがまともに役に立つようなテーマで行かれた先生がおられなかったのにがっくりきた思い出があります。(あと、私がいた威嚇と暴力を主たる教育手段とする学校の中にもたくさん内地留学をされた方はおられたのですが、それやったらあかんやろ、みたいなことをされてたし・・・)
実践家(現場教師は全員実践家のはず)であっても、何を求めればいいのか、わからない場合もあるからなあ・・・
エビデンスとして高いもの RCT(Randomized Controlled Trial。ランダム化比較試験)
二重盲検がもう一段高くなるのかな?
ただ、薬だったら二重盲検できるけど、教育方法は「教師の行動」→「児童・生徒の反応」だから二重盲検はできるわけないよな。
RCT は、メタアナリシスを経て、初めて真にエビデンスとなる。
EBE の理想のような事例が米国には存在する。学級規模をめぐる政策がそれである。1970年代末に、グラスとスミスは、学級規模の教育的効果に関する研究のメタアナリシスから、「学級規模が縮小するほど成績は上昇する傾向にあり、1クラス20人程度以下になると顕著に上昇する」[惣脇 2012:58]という結果を得た。80年代後半には、テネシー州において大規模な RCT が実施され、学級規模縮小の効果が確かめられた。このプロジェクトは他の州にも大きな影響を与え、クリントン政権下の1998会計年度からは連邦レベルでも学級規模縮小プログラムがス タートすることになった [ i b i d . : 5 8 - 6 1 ]。 |
あれ?
私、「成績」と「学級規模」は相関が強くなかった、という結果が出ていると覚えているのだけど。
なお、この学級縮小プログラムは、2001年、ジョージ・ブッシュ政権で事実上廃止。そして縮小のためのお金は、採用のためではなく「研修」などあらゆることに「柔軟」に使えるようになり、学級規模が拡大していったとのこと。
RCT が明らかにするのは
特定の入力(上記では学級縮小)
↓
特定の出力(学業成績の向上)
だけであり、なぜそうなるか、は明らかにしない。
(しかし「なぜそうなるか」を明らかにする RCT というのも存在しそうだけど。もちろんそれは「また別の実験」とならざるをえないだろうけど)
結局は、
「時々の教育的あるいは政治的流行」を正当化するのに都合の良い論拠をそのつど提供する、という役回りを演じる」
と。
エビデンス批判について
とりわけ批判の目が向けられているのは、教職の理解に及ぼすエビデンスの効果である。教育の場でエビデンスを強調することは、専門家としての教師の自由を狭める結果をもたらすのではないか、というのである。 |
これって、私が仲間と昔、「統一された対応か、教師の個性を生かした指導か」という論争で出てきたものと同じような気がする。
もし、本当に役に立つエビデンスなら、それに従いながらそれぞれの個性を発揮する指導は、まったくもって可能だと思います。
これらは対立する概念では無いと思います。
そして EBM においても
「目の前の患者に対するエビデンスの適用可能性についての判断」が求められる、という[Guyatt 1991]。 |
というのですから、「この場合は、これ使っちゃだめだよなあ」みたいに考えていくことは大切なはず。
こうしたエビデンスに起因する困難は、EBMを先行モデルとしてきたEBEの側だけではなく、EBEを批判する側にもその痕跡を残している。一方で、EBEは、EBMの核にあったエビデンスと応答責任との関係をほとんど真剣に受け取ることなく、政策動向の流れに乗った説明責任の文脈でエビデンス―ハマースレイの言う「エビデンスに基づいた説明責任」―を追求してきた。エビデンスが持つ正味の証拠能力に訴えようとするEBEの議論が空虚に響き、教育の文脈でのエビデンスが浮き草のように頼りないのはおそらくここに原因がある。他方EBE批判派の側も、論敵のそうした浮き草状態にいわば安住して、応答責任を支えるようなエビデンスの可能性について真剣に考慮しようとはしなかった。EBEの議論が応答責任に応えることなく説明責任の文脈に横滑りしているという事実を指摘すれば、批判としては十分だったのである。 |
この「応答責任」というのが私にはわからない。
で、検索すると、論文みたいなのが出てくる・・・(泣)