「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」という本、Wikipedia には「編著者名や製作された目的もいまだ不明」と書かれていますが、磯田さんは
東京大学資料編纂所の金井圓教授(当時)の
@おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いた
という説を紹介してはります。
で、詳しく各大名の行動や人物評を記録してまとめたものなわけ。だから「殿様の通信簿」というわけね。その中のいくつかを、他の資料と突き合わせて解説して下さってます。
水戸光圀
黄門様ですね。
江戸時代が進むにつれて、殿様というのはどんどん城の奥に閉じ込めらた生活を強いられていくようになります。で、黄門様は諸国漫遊こそしなかったものの、お城から出て「悪所に通い」と書かれてたりします。でも、国を治める姿勢などは褒められている)。
で、黄門様はすごく勉強好きでプロを読んできてはやり込めてしまうのが趣味みたいな人。だからいろいろな人と交流をしたい。でも城の奥にいてはそういう人たちを呼べない。呼んでも親しく口をきくというわけにはいかない。
当時の遊郭は文化サロンとしての面があり、芸術家、思想家などと交流するためには
遊郭に行くしかなかった。だから「悪所に通い」ということになったようです。
遊郭に行くしかなかった。だから「悪所に通い」ということになったようです。
で、「悪所通い」→「城から外に出る」→「諸国漫遊」というところまで話が盛られていったのかな?
前田利家から三代
加賀百万石は知ってたけど、それが前田家とは知らなかった(私はそちら方面には暗い)。
で、もし徳川家康に代わって天下をとれるとしたら、それは前田利家、と言われてたんですね。さすが百万石。しかし時代は関ヶ原から大阪冬の陣、大阪夏の陣を経て家康の基盤は盤石になっていく。
二代目前田利長は、「お家のために」ということで金沢城から出て、家康から医師を送ってもらい(つまり情報が丸裸になり、かつ毒を盛られても良いというわけ)、そしてどうやら本当に毒を(自分で)飲んで亡くなったみたい。徳川には逆らいません、というわけ。
三代目前田利常は、家康の孫が3歳の時に輿入れして来て、夫婦仲は良かったと。でついて来た乳母がまあスパイというか・・・
で、乳母は夫婦仲が良くてキャッキャウフフとやってたら、姫様を叱るような人で、ついには利常にも合わせないみたいなことをし、姫様が死んじゃった。
そしたら国に号令をかけ蛇を集め乳母を蛇責めにしようとした。
これは4尺四方の箱に蛇をうじゃうじゃいれ、そこに丸裸にした罪人を入れ、酒をそそいで蛇の動きを活発にさせるというもの。
まあ、実際にはさてやろうと引っ張って来ようとしたら、自害して果ててたらしいですけど。
まだまだ怖いことが普通にやられていた時代なんですね。