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 あくまでも、私個人の意見です。

2019年08月11日

五・一五事件と二・二六事件(「昭和の怪物 七つの謎」より)





保阪正康さんの書かれた上記2冊を読みました。

 先日NHK大河の「いだてん」で1932年(昭和7年)の五・一五事件があり犬養毅首相が殺されました。
 その時高橋是清蔵相も殺されたのだろうと思ってたら、そうではなく、高橋さんは二・二六で殺されたんだ。

 保阪さんは五・一五から60年たった犬養さんの関係者が集まった会で、話すことを頼まれ、でまあそんな会だということもあって、とりあえず「ほめる」話題に終始して話されたそう。
 すると次に演壇に上がった犬養道子さんがこう言われたそう。

「今、保阪さんは祖父のことを称揚気味に語っていただきました。それは遺族としてはありがたいのですが、しかし犬養毅という政治家も多くの矛盾を背負った政治家だったのです。そこのところを語らなければ、毅像というのは正確には理解できません。祖父に同情していただくお気持ちはわかりますが、歴史上の政治家としての評価は別です」

 すごいなあ。
 お祖父様のことなんだけど。

 しかし五・一五は殺した方が世論としては称揚され、犬養家の人々は「肩をすぼめて」生きていく必要があったと。

 ふ〜〜む。

 犬養さんの失敗(誤り?)としてあげられているのは、特に1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議で民政党の浜口雄幸内閣が対英米比率約70%という条件を受け入れたのに対し、軍令部長の加藤寛治らのグループが「統帥権干犯」という言葉を使って内閣を攻撃した。
 それの尻馬に乗ってというか政友会の犬養毅は「統帥権干犯をしているのでは」と政府与党を攻撃した。
 とにかく相手を攻撃できそうなことなら、その論理が最後にはどこに行き着くかを考えずにがんがん使ってしまい、大きな過ちに進んで行く、ということはあるわな。

 満州事変の後に作った満州国というのは明らかに植民地。
 そしてその後1932年に上海事変が起こった。その時、官邸の閣議室に犬養道子さんがまぎれこんでしまって聞いていた話。

「荒木陸相は興奮した口調で、上海にあって「支那軍の大抵抗に遭っている皇軍」の援助のために、「一大軍隊を送り支那を一挙にこらしめるべきだ」と発言したというのである。道子氏は、「お祖父ちゃまはこの馬鹿に答える気にもならず黙っていた。そのとき高橋(是清)大蔵大臣が、大きな眼をギョロリと剝き大声をあげて陸軍大臣を叱咤した」と書いている。
高橋は、「君はまだ若い......波がひとつ来ただけで大変だ大変だと言う......支那の身になってみろ、満州かッさらわれて.......まずかッさらった満州を返すことが先決だよ。支那問題はここにおられる総理のナワ張りだ」と叱ったそうだ。「陸軍大臣は窮し、蒼白となり、陸軍省に帰って憤激をぶちまけた」とも書き、陸軍内部に「高橋、消すべし」の声があがり、それが昭和十一年の二・二六事件へとつながったというのである。」

 ショーケンがこれを言うシーンが見たかったな。
 こういうふうに軍部に反論してた人がいた。
 でもそれが五・一五や二・二六で殺され、反論したら殺されるという風潮になり・・・ 
 しかもそれを世論は後押しをする・・・(満州は不況日本、土地を相続できない農民、などを一挙に解決する手段として世論の支持を受けていたんだろう。そこに住んでいる人の頭の中を想像する、ということはできていない・・・)








posted by kingstone at 10:48| Comment(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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