「無私の日本人」は磯田道史さんが書かれ、穀田屋十三郎のことは映画「殿、利息でござる!」で描かれました。
その中の大田垣蓮月について。
1791年(寛政3年)正月の生まれ
そして幕末まで生き、鳥羽伏見の戦いの後、京都から旧幕府軍追討軍を発っせんとした西郷隆盛に対し
「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば」
という歌を送って諫めたという。
磯田さんの意見では、勝海舟とかの談判の結果ではなく、蓮月の諫めによって西郷の
「この国を焦土にする。そこから新しい日本をつくる」
という考えが変わったのではないか、とのこと。
もともと、蓮月は津幡藤堂家のお殿様と芸妓との間にできた子で、お殿様が懇意にしていた知恩院の寺侍に「まかせた」と預けてしまった。
当時の京都では侍になりたい場合、寺やお公家さんの元にいけば士分として取り立ててくれたとのこと。ただし給料はものすごく少ないか、逆にお金を払わなければならない場合もあったとのこと。
で、まあこの子が評判の美人となり、かつ、なぎなた、剣術、鎖がま、舞、和歌、裁縫、囲碁と人に教えるレベルにあったと。3尺(90cm)の棒があれば1間(1m80cm)の壁を軽く越えることができた、と・・・
若い頃若い女性同士で連れ立って歩いていて、前から来た酔っ払いの武士の集団がしつこく狼藉しようとしたので、一人を投げ飛ばしたら、みんな散り散りになって逃げた、ということもあったらしい。
結婚生活では、1度目はダメンズで、生まれた子も亡くなり、夫も病気になり離縁。
2度目の夫とは睦まじく暮らし、2人の子ができたものの早くに死別してしまい、その後仏門に入った。父も剃髪した。すると知恩院が真葛庵という寺を用意してくれ父、蓮月、2人の子の4人で入らせてくれたそう。そのあたり浄土宗の知恩院はおおらかだったとのこと。
豆知識として、もともと浄土宗は、江戸時代もごく普通に妻帯していて奥さんは「大黒はん」と呼ばれていたとのこと。堅物の松平定信が老中になった時、急に取り締まられてえらいこっちゃになったそうだけど、すぐに旧に復したとのこと。もともと法然上人が「妻帯してもよい」と言ってはったしなあ。
子が次々と亡くなり、父が亡くなり、真葛庵に居られなくなった蓮月は、知恩院を出る。
そしてたつきに和歌を教えることを選ぶが、まあこれが蓮月の美貌目当て。それに苦しみ自分で歯を抜き老婆の顔になろうとしたと・・・(でも抜いたのかな・・・)
で、和歌を教えるのもやめ、自分の和歌入りの急須を陶芸で作り始めたけど、不器用で全然売れない・・・しかし、そのうち「それが味がある」とどんどん売れ出した。これが「蓮月焼き」。そうなると偽物もどんどん出回り、でも「私の名前で商売ができるのはいいことだ」と気にもかけなかったとのこと。
そのうち偽物作りの人が一緒になってやって来て「うちのにも和歌を」と願い出たら、快く歌を作ってあげたと・・・なんかすごい。
その後、養子のように手元において一緒に暮らした子が後の富岡鉄斎。
で、ほんと、人に与えることばかりを考えていた人で、亡くなった時には村人全員が号泣したとのこと。すごいなあ・・・