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 あくまでも、私個人の意見です。

2017年12月02日

ゲゲゲの女房 武良布枝著





ゲゲゲの女房 武良布枝著

 布枝さんが、武良茂(水木しげる先生)の釣書を見たのが昭和35年(1960)年の秋。
 そして周囲から水木先生は「もう40になる。これが最後のチャンスかもしれない。帰って来て見合いして結婚しろ」と言われ、住んでいた調布から無理して安来に帰って来たのが、1月。で、見合いして5日後には結婚式・・・

 そうかあ。
 昭和35年(戦後15年)でもそんなもんか。


 結婚は「好き」という思いでするものではなく、とりあえず男女一緒になって、そこから関係ができていく、と。
 で、布枝さんは安来の親戚と「今生の別れ」と思って東京に出発したと・・・

 で、貸本屋業界もまともにお金を払ってくれるような会社は無く・・・

 なのに税務署の方が来られます。

「正直に申告しています。これだけしか所得がないんです」 
「所得がないといったって、生きている以上は食べているでしょう」
「なんとか」 
「だからいっているんだよ。これじゃ、あんたたち家族が食べていられる所得じゃないでしょう」
「それでやっているんです」
「だから、他に収入があるんじやなて、聞いているんだ」
 そんな収入しかないから、餓死しないように四苦八苦しているのです。それをいってもいっても、相手には伝わりません。
 やがて水木はだまり込んでしまいました。顔が真っ赤に紅潮していました。水木は大きく息 をすい込むと、肩をいからせて、大声で一喝しました 。
「われわれの生活がキサマらにわかるか!」
 そして、水木はすかさず、質屋の赤札の束を税務署員の前にグイッと突き出しました。これには税務署員も唖然としたらしく、早々に退散していきました質屋の赤札の厚さが3センチにも達していたからです。


 しかし、そんな時、布枝さんの妊娠がわかります。


 家に帰って水木に「おめでたのようよ」というと、水木はハッと顔をあげて、私を見つめ、そのままだまり込んでしまいました。
 水木も不安だったんでしょう。いまでも苦しい生活なのに、食い扶持が増えるのですから。しばらくして水木は真顔でいいました。
「おまえ、子どもは大変だぞ」
 そして西宮時代のときのことを話しはじめました。西宮で兄家族と同居したと 跳がよく泣いて大変だったというのです。カンの強い子だったのでしょう。火が 泣き出すと、大人は手も足も出なかったとか。
「おれは、子育ての大変さを実感しとる。おまえには、それがわかっとらん。」
「大丈夫よ私だって、子だくさんの家に育ったんだから、妹ゃ弟、甥っ子の世話だってしたことがあるもん。わかってます」
「その上、うちは貧乏だ」
「いくら貧乏だって、なんとかなーわね。それに、私もお父ちゃんも年をとっていて、この先、また授かるかどうかわからんもん。せっかく授かったもんだから、私は産みますけん!」
 私がキッパリいい切ると、水木は、だまってうなずきました。


  そんなやりとりまであったんやな。

  しかし、いくら貧乏でも、酒や博打をするわけでもなく、毎日毎日、体をねじり左肩で原稿を押さえながら(左腕が無いから)、身を削るようにして描き続ける水木先生の背中を見ていて「この人の努力は本物だ」と思っておられたとのこと。


  その後、少年マガジンなどにも連載できるようになり、家計的には一息つかれるわけですが、その後の浮き沈み、そしてまた忙しさゆえの家族不和も経験されたそう。

  しかし、最晩年はみなさんのご存知の通り、多くの人にリスペクトされ、境港の「鬼太郎ロード」のプロジェクトも大盛況になり、今でも多くの方が訪れる観光資源になっておられます。

  で、何度もご夫婦で安来や境港を往復されるようになった。
  昭和35年頃とは隔世の感がありますね。

  そして訪れられたおりに、島根半島に沈む夕日を見ながら布枝さんが言ったのが
 「終わりよければすべて良し」

  ほんとそう言えるようにしたいな。




posted by kingstone at 22:30| Comment(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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