後書きによると、著者のセバスチャン・ハフナー(1907年12月27日 - 1999年1月2日)はジャーナリスト。
ヒトラーと同時代人。
でついでに訳者の後書きから引用。
本書ではアドルフ・ヒトラーという難間中の難問を解くための基本公式が示される。たとえば「ヒトラーを不用意に右翼政治家に位置づけてしまうのは禁物だ。彼はあきらかに……左翼政治家のタイプだ」。あるいは「ヒトラーはいまだに多くの人びとのあいだで、ただの日和見主義者、直感頼みのはったり政治家とされている。だがそれはまことに探究心の足らない人たちの思いこみである……彼が考えだした理念は、細部はあらが目立つものの、本質としては筋の通ったひとつの体系をなしていて、まさにマルクス主義的な意昧での『理論』を形成していた」。また「ヒトラーをファシストなどと呼ぶのは、まちがいもはなはだしい。ファシズムというのは上流階級による支配であり、大衆の熱狂を作為的に生みだして、自分はその上にあぐらをかくのである。ヒトラーも大衆を熱狂させはしたが、けっして大衆を離脱して、上流階級にのし上がろうとはしなかった」
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まず当時の状況の復習。
1918.9.29 参謀総長ヒンデンブルク
参謀次長ルーデンドルフが政府に
アメリカの収拾案を飲むように通牒を送る
1918.11.4 キール軍港の反乱「労兵協議会」
次々と他都市でも「労兵協議会」ができる
1918.11.7 ミュンヘン革命
1918.11.9 ベルリン革命。エーベルトが首相に。
1918.11.10 ヴィルヘルム2世オランダへ亡命。
ドイツ帝国倒れる
社会民主党は、マルクス主義政党ではあるが、前年のロシア革命を見て革命(社会の混乱)を嫌っていた。
1918.11.11 エルツベルガーが仏のフォッシュ元帥の前で休戦条約調印
1918.11.12 政府が施政方針宣言
「革命から生まれた政府は純社会主義政策をとり・・・」
から始まるが、その後出て来る具体的プログラムは特に社会主義的というわけではない
・戒厳状態の廃止
・集会結社の自由
・検閲の廃止
・戦時中停止されていた労働者保護法の復活
・社会政策の一層の拡充
・近い将来における8時間労働制の施行
・選挙規定(つまり民主主義的選挙)
社会主義の定義って何だろうとあらためて思う。
共産主義にしたって・・・今の中国、北朝鮮、ヴェトナムあたりは自分達のことをどう言っているのだろう。
私から見ていると「独裁」「一党独裁」という権力のあり方が目につくのだけれど。
昔のソビエトもそんな感じだったな。
まあ当時のヨーロッパ(他の地域でもか)では、貴族や資本家と労働者階級は、比喩でなく「殺るか殺られるか」の関係だったのだろうけど。
そしてヒンデンブルクを初めとした軍人(ヒトラーも)は、
「戦争(第一次世界大戦)には勝っていたのに、革命のせいで負けた」
と思っていた。
なお、林氏は現実には戦争でも負けていたと書いてる。
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なお、上記最後の点はハフナー氏も
つまり彼は、革命が起きたから戦争に敗れたと考えていたが、それはあやまりで実際には戦争に敗れたから革命が起きたのである。だが多くのドイツ人と同様、ヒトラーもこの点をとりちがえていた。
と書いてはる。
1919年9月12日 ドイツ労働者党 (DAP) に入党
1920年2月24日 大集会で初めて演説し大成功をおさめる
1930年代中盤から後半にかけての奇跡について
ヒトラーが首相になった1933年1月、ドイツには600万の失業者がいた。わずか3年後の1936年には完全雇用が実現されていた。悲惨な困窮に泣きくずれていた人びとが、つつましくも心地よい繁栄を実感するようになったのである。なすすべもなく希望もなくうちひしがれていた人びとの胸に、信頼と自信がよみがえった。これは重要なことだった。
さらにすばらしかったのは、不況から好況への転換が、インフレもなく、賃金や物価が安定したままになされたことだった。これはのちのルートヴィヒ・エアハルトには、とうていまねできなかった。
ドイツ国民はこの奇跡を前にただ感謝感激するばかりだった。1933年以後ドイツの労働者たちは社会民主党や共産党を離れ、大挙してヒトラーにくらがえした。このときドイツ国民が抱いた感謝の念がどれほど大きかったかは、どんなに想像してもあまりあるほどだ。この感謝の思いが1936年から38年のあいだ、ドイツの世論を完全に支配していた。
あいかわらずとトラーを拒絶する者はいたが、そのような者たちは粗探しの不平屋として片づけられた。「あの男には失敗もあるかもしれない。だがともかくおれたちはあの男のおかげで仕事にも.バンにもありつけたんだ」。1933年当時ヒトラーの反対勢力として社会民主党や共産党を支持していた者たちでさえも、この何年かのあいだにすっかり目の前の奇跡に魅せられていた。
1930年代のドイツ経済の奇跡は、ほんとうにヒトラーの功績だったのか。異論をさしはさむむきもあるだろうが、そのとおりだといわざるをえない。まったくそのとおりだったのだ。
ヒトラーは経済学にも経済政策にも素人だった。経済の奇跡をもたらした1つひとつの着想は、火牛が彼によるものではない。とくに危険をおかして資金の調達をやってのけたのは(これこそはすべてを左右する離れ技だったが)、それはヒトラーではなく、財政の魔術師と呼ばれたヒャルマール・シャハトであった。
だがシャハトを起用したのはヒトラーにほかならない。はじめ国立銀行の総裁に抜擢し、次に経済相に任命した。さらにそれまで頓挫を繰り返してお蔵入りしていた経済再建計画を、ふたたびもちだして実行させたのもヒトラーだった。税手形やメフォ手形(訳注・一種の偽装国債。国立銀行が保証するかたちでダミー会社の手形を発行))を考案して資金を調逢し、勤労奉社団をかりたてアウトバーンを建設して雇用拡大をはかったのである。
彼は経済通などではなかった。ほんの寄り道のつもりだった。まさか経済危機を乗り越えて、大量失業を克服することによって権力の座につくことになるとは思ってもみなかった。そんな課題はまったく織り込まれていなかったのだ。1933年まで、彼は経済のことなどほとんど考えたこともなかった。だが正念場を迎えて、経済が肝だと瞬時に悟る政治的直感が、この男にはそなわっていたのである。
なお、ユダヤ人排斥については、東ヨーロッパでは激しかったが、ドイツはヒトラー以前は融和策をとろうとしていて、だから上記の「あの男には失敗もあるかもしれない・・・」という点について多くのドイツ人は「彼のユダヤ排斥は困ったものだけど、経済は彼が建て直してくれたから・・・」と思っていたそう。