誰もボクを見ていない
なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか
山寺香著
巻末にある年表を参考にしつつ、その頃あったことを書いていくと。
1991年 母、1度目の結婚。2子をもうけ離婚。子どもは父の元へ。
1995年 母、少年の父と結婚。
1996年 埼玉県内で少年が誕生
4歳の頃、両親の借金が膨れあがり、アパート家賃を滞納し、親子3人で父方祖母のアパートに転がり込む。
お金が無くなると、母は知り合いに借金をして回り、親戚からは「厄介者」と考えられていた。
2001年頃 関東近郊の父方祖母宅のそばで、両親と暮らす
父方祖母がアパートを借りてくれた。
母親は毎日パチンコ店に少年を連れて行っていた。
祖母の渡す家賃もパチンコに。注意をすると「今仕事を探しています」「働きます」「すみません」と謝る。(母の人当たりはいい)
母はひとときも少年から離れることが無かった。
少年は幼稚園などには通わず母が計算などを教えた。
少年は父の思い出はあまり無いが、「お前は俺の子じゃない」と言いながら足で畳に顔を押さえつけられた記憶はある。
2003年 春さいたま市内に戻りアパート暮らし 間もなく両親が別居
小学校入学を機に転居。ここもやはり父方祖母が探して契約してくれた。
なお、小学校入学頃から「性別違和」を感じていたよう。
小学校2年生後半くらいより、父には女性ができ、母はホストクラブへ通うようになり、少年の世話もしなくなっていった。母が知り合った大人たちが男も女もアパートに来るようになった。
少年が母に忠告すると「言うことをきかないなら施設に行ってもらう」と言うようになり「5,4,3・・・」とカウントダウンするようになった。
2006年 両親が正式に離婚
小学校4年生の2学期後半から、少年はほとんど学校に行かなくなった。
担任は何度も家庭訪問をしている。
家賃の滞納は続いていたが、父方祖母が肩代わりしていた。
しかし離婚後は肩代わりをやめた。
なお、月4万円の養育費の支払いを決めて、それは最後まで払われていた。
2007年春 アパートを追い出され、母親の知人男性宅で暮らす
しかし母親が単独で名古屋に出奔。掲示板で知り合った義父と一緒になる。なお「名古屋から帰って来るお金が無い」と少年に無心している。少年はおばさんから貰ったこづかいから1万円を送った。
突然母と義父がやって来て3人で一緒に名古屋に行った。
2007年10月静岡県西伊豆町の旅館で母親と義父が住み込みの仕事を始める
少年は学校に通う。いじめがあったが、母と義父が学校に相談をしてからはいじめはなくなった。
しかし母は「仕事のことを考えると吐き気がする」と言って働かなくなり、義父も働かなくなる。
少年がおばさんに無心したお金で生活。
2007年12月西伊豆町に住民票を残したまま埼玉に戻る。少年は「居所不明児童」となる
2008年1月頃 さいたま市内のモーテルで暮らし始める
モーテル(ラブホ)で3人で暮らし始める。
少年は母と義父の性行為を見せられ、また義父は少年に直接性的虐待もした。
管理人は「おかしいな」と思ったが、それ以上は踏み込まなかった。
従業員からも「警察に届けたほうがいいのでは」という話が出たが、管理人が止めた。
しかし、警官は薬物についての聞き込みでモーテルには立ち寄ることはあり、管理人が何度かほのめかしたが、薬物のことで頭がいっぱいであったのか、聞き流していたので、管理人もそれ以上は言わなかった。(少年係だったら別だったのだろうけど・・・)
やはり少年がおばさんに無心したお金で生活。4〜500万円にのぼると言う。
お金が無い時はモーテルの敷地にテントをはって暮らす。
2010年 妹誕生
産婦人科へ飛び込み出産。
出生届けは出されなかった。
この時点で埼玉の児童相談所は、病院からの通報があったのか、「飛び込み出産」などをした一家のことを把握していた。
しかしそれ以後の接触した記録は無い。
2010年春 一家4人で横浜市内に移り、ホテル泊や野宿を繰り返す
義父の暴力はひどくなる。殴られ前歯が4本欠ける。
2010年8月 生活保護を受給し横浜市中区内の簡易宿泊所で暮らし始める
公立図書館で「生活困窮者向け行政の相談窓口」のチラシを見て、義父が相談に行ったもよう。
横浜市中区役所が生活保護手続きをした。
また連絡を受けた横浜市中央児童相談所が対応することになった。
児相からは
・担当係長
・ケースワーカー2人
・保健師
の4人で面談にあたった。重大な案件と認識しており、一時保護を念頭に置いた人員配置だった。しかし母が頑なに拒否した。妹の健康状態は良く、少年の前歯欠損などは見逃された(しゃべらず、口を大きく開かないと見えないし・・・)のか記録は無い。
しかし生活立て直しのため支援を継続して受けることを両親に約束させた。
妹の戸籍を作り、少年は学校に行っていない期間が長かったので、学校には籍を作り、近所のフリースクールに通うところから始めた。
2010年9月 少年がフリースクールに通学を始める
児相の方は少年に「また児相にも寄りなよ」と声をかけていたので、少年がやって来たこともあった。
2011年 2月頃 簡易宿泊所から一家4人で姿を消す
保護費をあっという間にギャンブルで使ってしまうので、チェックや指導を受け母が「鳥かごみたいな生活は嫌」と家族で出て行ってしまった。
2011年 5月 横浜市鶴見区の新聞販売店の寮で暮らし始める
住民票を移動したので、中央児童相談所のケースワーカーが住所を把握し面談にやって来る。
鶴見区の各部署と連絡をとって支援を続けることになった。
2011年11月 埼玉県南部の建設会社の寮で暮らし始める
義父が集金したお金を持ち逃げ、一家で失踪。
ここで児相と切れた。
2012年8月 埼玉県南部の塗装会社の寮で暮らし始める
2012年11月 義父が失踪し、代わりに少年が塗装会社で働き家計を支える
2014年3月26日 川口市で少年が祖父母を殺害しキャッシュカードなどを奪う
なお、少年は母から「殺せ」と指示されたと言い、母は「言っていない」と否認している。
1審では母の証言を認め、控訴審では少年の証言を認めている。
暗澹とした気分になりますが・・・
どこに「もしこうだったら」「あの時こうしていれば」ということがあるかと思ったけれど、少なくとも私が読んだ限りはどこにも無い・・・
それぞれの現場は介入しようと頑張っている。
この話は、お母さんへの支援、本人への支援、両方必要な話なんだけど・・・
しかしじゃあ「どこでできたか」と考えれば、ちょっと思いつかない。
なお、少年は山寺さんとの面談するなかで、今後の子ども達のために「周囲の人がもう一歩踏み出してくれたら」と告げている。
その通りだと思う。
でも、それが難しいよなあ・・・
私が「その場で一歩踏み出せなかった例」
でも、今なら、ほんと私を守るものはやっぱり「何もない」のと同じ状況なのだけど、いろんな人とのつながりができたので、有効かどうかはわからないけれど、一歩あるいは半歩は踏み出せるかもしれない・・・
なお、この事件や、その他のいろいろがあって、児童相談所の現場もいろいろと対応がもっともっと改善されてきている、とのことです。いろいろなシステムを整えたりとか・・・
しかし、先日もTwitterのTLでこんなに難しい仕事を、非常勤の方達がやっておられる、という話も見ました。
やっぱり、そこんとこからやなあ・・・