コミュニティデザインの時代 山崎亮著
江戸時代(それ以前からだろうな)、「道普請」という言葉でもわかるように、共同体で自分達でやらなければインフラも整わなかった。税金も組頭が集めた。それで「住民参加」は強固だった。しかしそれは時として息苦しかった。
「つながり」と同時に「しがらみ」
しかし、税金は金納になり、個別に払うようになり、「つながり」も「しがらみ」もなくなり、そして税金集めも、インフラ整備も「行政」がしてくれるものになっていった。
とはいえ、行政ではなく、地元の人が開発していった例もたくさんあるとは思うけど。
私の近隣で言えば、例えば「淡河疎水」とか。
ここは「御坂サイフォン」のことが神戸市の小学校4年生の教科書副読本に出ていたが、今も出てるのかな?
しかしWikipediaを読むと、誰が出資して、どういう経緯で作られたかは書いてないな。
私は神戸市中央図書館で当時の新聞記事を調べたのだけど、「借金返済で農民が苦しんだ」とかいう記事ばかり出てきて、景気のいい話がなかったのを覚えているのだけど。私自身は「人は苦労話をしたがり、景気のいい話は隠そうとする」という心理でそうなったのかな、と思って読んでいたのだが。
まあ話を戻して、行政が何でもやってくれるという意識が我々にしみついたことは確かだろうな。それを山崎さんは「お客様化」と呼んでいる。
でも、高度成長も終わり、箱物行政も失敗し、人口も減るようになり、その考え方では何もできなくなってきて、それに変わる手法が必要になってきた、と。
こちらに出てくる、鳥取県や島根県、各地の中山間離島地域は「人口減先進地域」なのだ、と。そこでの知見を各地で役立てられるのではないか、と。
行政がやるものだと思っていたことを住民が協力してやるようになると、住民同士の関係性が変わるようになる。たとえば、高齢者が集まるデイケアセンターに昼食の弁当を届ける仕事を行政から委託された業者がやっていた場合、交通渋滞で昼の12時を少しでも過ぎて弁当が到着しようものなら、集まった高齢者から文句がたくさん出たという。ところが、弁当の配達を業者ではなく元気な高齢者からなるNPOに委託するようになると、12時を過ぎて配達されても「いつもありがとう」という言葉が出る。自分と同じ高齢者が運んでくれることに対して、デイケアセンターの高齢者が感謝する。世間話が始まる。国家と国民、行政と住民の間に誰が入るのかによって、両者の意識が変わるということは十分にあり得る。
この感じはよくわかるな。
私が、始めてリハ工カンファレンスに参加した時、分科会で「障害者用グッズ販売」を始めたばかりの(当時だと、まさに最先端。今みたいに介護用品の店がいっぱいある時代では無い)方の発表の質疑応答の時、ある参加者が怒って詰問してはりました。その方はALSの家族会の会長さんか何かをしておられる方でした。「なんでこんな大切なことを今まで知らせなかったんだ!」発表者も含めて、誰も何も答えません。ってか何も言えないよね、そりゃ。
で、私が手をあげてすぐに質問のために立ち上がり、質問の前に「リハ工カンファレンスという、国や行政がお金を出すわけでもなく、みなさんが手弁当で集まって来られて、情報を交換する場を作って頂いてたいへんありがたいです。」と詰問してはった方も含めて周囲を見回しながら発言し、それに続けて発表者の方に「どうですか?儲かってますか?」と尋ねたら、少しだけ会場でもウケて、空気がなごんだ思い出があります。
翌年、その詰問しはった方と一緒に飲み行って、その時の話で笑いあいました。
大事なこと。
「貸し借りを作る」
の中で、エントリの中には書けてませんが、鈴木さんも、「貸し借りを作る」ことの大事さを書いてはりました。
山崎さんは建築家。
いや、「元」建築家、なのかな?
最初はランドスケープデザイン(公園や庭園を設計する)をしていた。
しかし、マルヤガーデンズの仕事に携わる時には、すでに山崎誠子さんがランドスケープデザイナーとして入っていたのでコミュニティデザイナーを名乗るようになった。
「つくらないデザイナー」を自称する人も増えている。
山崎氏も、ハードを作る時は他の建築デザイナーにお願いしている。
今でもたくさんのイベントをしてはるな。
仕事観
究極の目標は自分の仕事を消すことであるという意味では、僕もまたコミュニティデザイナーという仕事がこの世からなくなればいいと思う者の一人である。外部の手助けなどなくても自らの手でコミュニティを元気づけます、つながりをつくります、という社会になれば、僕は喜んで別の仕事を探しに行くだろう。ランドスケープデザイナーからコミュニティデザイナーになったときと同じように。
ああ、これは、私も現在の仕事場のスタッフさんに言うことがある。究極、児童発達支援や放課後等デイサービスが無くなっても、子ども達が、問題なく落ち着いて家や町で過ごせるようになるのが究極の目標だと。まあそう考えて、自らの専門性を高めて仕事をしていれば、逆に仕事が無くなることは無いだろうけど。
ブライアン・オニール クリッシーフィールド国立公園の整備(ハード面だけでなく、様々なプログラム、ソフト面でも)に力を注いだ行政の担当者。
上は山崎さんの講演で、ブライアン・オニールについても触れられています。
また、山崎さんの写真もある。
日本におけるコミュニティデザイン
1.建築家がハード整備によってコミュニティを生み出そう
コミュニティプラザなど。
(1960〜70年代のニュータウンなど。
まさに私の住んでいるあたりだ)
2.建築物にコミュニティの意見を反映させよう
3.ハードを前提とせず、地域の住人や、
地域で活動している人のゆるいつながりで、
課題を乗り越えていこう
有馬富士公園
いえしまプロジェクト
海士町で下水道整備の会社を経営する中村さん
最初は「俺は行政がやることには興味はない」と言っていたのに、強引に誘ってワークショップに参加してもらった。会での発言も
「おい、意味がわからんぞ!」
「話が長いぞ!」
「めんどくせえ」
だったのに、中心的存在になっていった。
なお、本の後ろの方で、人から「うまくいかなかった例は?」と尋ねられてもそういう例が思い浮かばない、と山崎さんは書いておられます。しかし、下記は「うまくいかなかった」例と言ってもいいのじゃないかな、と思うのは・・・
なんと(私の住んでいる)兵庫県での話。
ある研究所で中山間離島地域に関する研究に携わった時、県北部の中山間地域のマネジメントをどうするかの研究をされた。そして「集落診断士」という各集落を調査し、しかし調査するだけでなく、その集落の人たちが「どうしたいのか」についての合意に基づいて判断できるようにしていく仕組みを提言したのだが、自然消滅したとのこと。
で、その考え方を持ち込んでうまくいったのが海士町なんだって。
いやはや兵庫県・・・
なお、海士町では「集落診断士」でなく総務省も制度を作っていた「集落支援員」となってる。うん。「診断士」より「支援員」のほうがいいだろうな。名前としても。
コミュニティデザインの4段階
1.ヒアリング
2.ワークショップ
3.チームビルディング
4.活動支援