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 あくまでも、私個人の意見です。

2016年12月12日

職業は武装解除 瀬谷ルミ子著





職業は武装解除 瀬谷ルミ子著



1977 群馬県新里村(現在桐生市)生まれ
    小学校は1学年45人。
    「今日はクマが出たので、パトロール中の猟師さんに気をつけて帰りましょう」
    と言われるような環境。

1988? 弟さんが脳内出血で生死の境をさまよう。
     その後、元気になられたが一部障害が残る。

    高校の時、
    「医者になるには数学ができない」
    「英語も帰国子女にはかなわない」
    「何かプラスαが必要」
    「自分だからできることは何?」
1994年4月 ルワンダの大虐殺の写真を見ていろいろ考え始める。

 しかしすごいねえ・・・写真を見ていろいろ考えるのは誰でもするとして、また「私にできることは何か、私がしたいことは何か」も青年の時は考えるとして、それを結構理路整然と考え続けるってのが・・・

 で、「人のやっていないこと」を探してやろうとしてはる・・・

 私の高校時代なんて、めっちゃミーハーで、何も考えていなかった、と言っても良いと思うけど。

 進路として中央大学総合政策学部を選び進学。
 で、お金的には苦しかったみたいだけど、貯めてアメリカ横断旅行やルワンダ行きを実現されてます。

 その後、紛争解決について学べるところを探し、イギリスのブラッドフォード大学に「平和学部」があることを知り、さらに自分の5年後10年後の姿を思い描いて、人がやっていない分野を、と情報収集し、考えつめ「兵士の社会復帰」をテーマにしたいと志望動機書を書かれます。

 そして、振り返れば、その仕事をずっとやってはる・・・すごい・・・

DDR
  Disamament(兵士の武装解除)
  Demobirization(動員解除)
  Reintegration(社会復帰)

 22歳くらいで・・・私、その頃・・・あほなことばかりしてたなあ・・・

 ボスニアヘルツェゴビナに現地調査に行き「和解」という言葉が凶器になることを知る。

2000.10 日本のNGO「アフリカ平和再建委員会(ARC)」
     からルワンダ現地駐在員のオファーがあり、就任。

2001.4 ルワンダの仕事を後任に引き継ぎ
     自費で当時武装解除が行われていたシエラレオネへ。
     宿泊したホテルが国連PKOの事務所にもなっていたので、
     その部屋を訪れたらアポもとれ、プレゼンをねって
     説明したら大統領直属の国家DDR委員長にまで面談できた。

     シエラレオネでは少年を誘拐し、少年兵とし、
     再びその村を襲い、襲撃をさせる。
     やらないと殺すと脅したうえで、
     父親の手首を切り落とさせる、などもした。
     加害者に仕立てあげ、戻れなくさせる。

2002.1 シエラレオネの国連ボランティアとなる。
     当時はR(社会復帰)の段階だったが、
     兵士(加害側)が優遇されることに違和感を感じる


2003  アフガニスタンで日本大使館二等書記官として
     武装解除にあたる。
     地方軍閥が割拠している状態で困難を極めた。

2005  休暇のつもりのネパールでもマオイストの
     武装解除を相談され、コートジボワールの友人から
     休暇ならおいで、と言われ、行ったら・・・

2006.4 コートジボワールで国連職員として1年間活動

2007.4 NGO 日本紛争予防センター(JCCP)事務局長となる








  

posted by kingstone at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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