読書メモ
ハンナ・アーレント
「戦争の世紀」を生きた政治哲学者
矢野久美子著
中公新書
1906年(明治39年) ドイツ中北部ハノーファーに隣接したリンデンで生まれる。
当時のドイツ(ドイツ帝国 1871〜1918)はプロイセン王国を中心とした連邦国家。
父母はバルト海に面した当時の東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現在ロシア領、カリーニングラード)(なんかケーニヒスクローネみたいな名前)の出身。二人とも裕福なユダヤ家系ではあったがユダヤ教徒ではなかった。
ハンナ2歳半の時、父が若い頃かかって完治したと思われていた梅毒再発。
ケーニヒスベルクに転居。
父の機能障害・精神障害は進み、1911年(明治44年)には介護施設に入所。
1913年(大正2年)ハンナ7歳の時、父が亡くなる。
母方の祖父が力になってくれる。
ケーニヒスベルクの歴史
13世紀ドイツ騎士団の築いた城から始まる
16世紀までユダヤ人の居住は許されなかった
16世紀半ば2名のユダヤ人医師の滞在が初めて認められた
(17世紀半ばポーランドとリトアニアのユダヤ商人に商売を営む特権が与えられた)
17世紀半ばケーニヒスベルク大学でユダヤ人が医学を学ぶことが許された
18世紀半ばユダヤ人共同体の構成員300人
19世紀初めユダヤ人共同体の構成員900人近く
ケーニヒスベルクの有名人 イマヌエル・カント(1724〜1804)
ハンナの時代もいろいろな意見があった
ドイツとの融合を唱える派(ハンナの父方祖父はこちら)
シオニスト(ユダヤ国家樹立を唱える)
ハンナが子ども時代 反ユダヤ主義的風潮はあった
ハンナの少女時代の友人のひとりが、からかい半分で反ユダヤ主義的なことを言い、少女は自分の母から「そんなことは口に出してはいけない」と叱られた。
たとえば学校の教師が東欧出身のユダヤ人の生徒だちなどにたいして反ユダヤ主義的な発言をした場合、ハンナは、「すぐさま立ち上がり、教室を去り、家へ帰り、すべて詳しく報告するように指示されていた」。母マルタは学校に抗議の手紙を書き、ハンナはその日は学校に行かなくてもよく、「それがけっこう楽しかった」。しかし、反ユダヤ主義的な言葉が子供だちからなされたものであれば、「家でそのことを話すのは許され」なかった。
子供どうしでのことについては、自分で自分を守らなければなりませんでした。そういうわけで、このこと(ユダヤ人であること)は私にとっては一度も問題とならなかったのです。私かいねばそのなかで自分の尊厳を保持し、保護されている、しかも絶対的に保護されている行動ルールのようなものが家にはあったのです。
(「何が残った?母が残った?」より)
1924秋 マールブルク大学入学
主専攻 哲学
副専攻 プロテスタント神学・古典語学
この大学にハイデガーがいた
1926夏学期からハイデルベルク大学に転学
ヤスパースがいた
1928 博士論文「アウグスティヌスにおける愛の概念」
1929 ギュンター・シュテルンとの結婚
1932 国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が第1党となる
1933 ヒトラー首相就任
ハイデガー ナチ入党
ハイデガーの師匠であるフッサールはユダヤ系のため大学校内立入禁止となる
ハンナ・アーレントはドイツ国内の反ユダヤ主義的表明を収集し、
逮捕される。運良く出獄でき、翌日には非合法に国境を越えた。
(このあたりのどこかで離婚してるのかな)
→プラハ(チェコ)→ジュネーブ(スイス)→パリ(フランス)
この頃、亡命ユダヤ人は「我々のパンを奪う」と排外主義の対象になっていた
1939.9.1 ドイツ軍ポーランド侵攻 第二次世界大戦勃発
1940.1 ハインリッヒ・ブリッヒャーと結婚。
1940.5 ハンナ・アーレント、ギュルス収容所(仏南西部)に
ドイツ人として、収容される。
女性たちは身だしなみを整え、趣味のグループを作った。
収容所管理者の「被収容者リストを作れ」という命令には
「私たちは仏の警察ではありません」
「私たちは囚人です。リストは作りません」
と言い続けた。
もしこの時リストを作っていれば、
仏警察→ヴィシー政権→ナチと渡っていったろう
1940.6.14 フランスがドイツに降伏し、
パリ占領後の数日間の混乱の間に逃走。
この時逃げなかった人は絶滅収容所に送られた。
→ルルド(仏。スペインとの国境)→モントーバン(仏)
ここからマルセイユのアメリカ領事館に通い、ヴィザ取得
1941.5.22 アーレントとブリッヒャーはニューヨークに着いた
1943 アウシュビッツの噂を聞いた時、多くの亡命者同様、
二人とも信じなかったという
半年後、証拠をつきつけられ衝撃を受ける
この時期、アーレントはパーリア(賤民)
としてのユダヤ人について論じている
1950年代 アメリカでマッカーシズムが吹き荒れる
1951 『全体主義の起原』出版
1955.5 カリフォルニアでエリック・ホッファー(沖仲士の哲学者)と会う
アーレントは彼を「砂漠のなかのオアシス」と呼んだ
1957 リトルロック高校事件
この事件に対し、アーレントは
「黒人高校生当事者を犠牲にする形での統合には反対」の意見を表明してリベラル陣営からの総スカンを受ける(後の『イェルサレムのアイヒマン』を彷彿とさせる意見表明やなあ・・・周囲の多くの人(友人)たちとは反対の意見を表明する・・・)
1958 『人間の条件』出版
1963 『イェルサレムのアイヒマン』を雑誌に掲載、非難囂々となる
しかし多くの大学生には支持されたよう
ここらあたりからは映画「ハンナ・アーレント」に詳しい。
また支持・評価した知識人もいた。
その中に、ブルーノ・ベッテルハイムもいた。
論壇で力があったんだろうなあ・・・
しかし本業の自閉症のお子さんへの対応はひどかったと・・・
まあ、今でもそういう人は結構いそうな気はする。
アーレントは「物語る」ということにたいして強い思い入れをもっていた。政治学会で自分の理論を「わたしの古風な物語り」(my old-fashioned story-telling)と呼んで、会員からほとんど無視されたことさえあった。「理論がどれほど抽象的に聞こえようと、議論がどれほど首尾一貫したものに見えようと、そうした言葉の背後には、われわれが言わなければならないことの意味が詰まった事件や物語がある」と彼女は言う。個々の事件や物語へと脱線し、多くの解釈が混在する「物語」よりも、理路整然とした論証のほうが理解しやすい、という知的先人見あるいは慣習のようなものがある。しかしそれだけでは人間の経験の意味を救い出すことはできない、と彼女は考えていた。アーレントは、「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる」というアイザック・ディネセンの言葉をしばしば引用していた。
1975 ハンナ・アーレント死去