おはようございます。
雨が降ってます。
衝撃的な事件が起きました。
・ 第二百十六段
最明寺入道、鶴岡の社參の序(ついで)に、足利左馬入道の許へ、まづ使を遣して、立ちいられたりけるに、あるじまうけられたりける様、一獻に打鮑(うちあわび)、二獻にえび、三獻にかい餅(もちひ)にて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、あるじ方の人にて坐せられけり。さて、「年ごとに賜はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、いろいろの染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。
その時見たる人の、ちかくまで侍りしが、語り侍りしなり。
古文って、例えば
「さて、「年ごとに賜はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候」とて、」
みたいに
「いったい誰が誰に言ったの?」
と疑問を持つことが多く、私は読んでてわけがわからなくなることが多いんだけど、昔の人にとってはまったく問題が無かったのかな?
この文、どうってことない「お客様への接待」の話と読めるのだけど、下記を読むと
殺し合いをしてる人たちも、昔はこんなふうにほのぼのつきあってたよ、という話になるのかな。
もずらいとさんからのコメントがつきました
>「いったい誰が誰に言ったの?」
>と疑問を持つことが多く、私は読んでてわけがわからなくなることが多い
>んだけど、昔の人にとってはまったく問題が無かったのかな?
文なので敬語に着目すれば誰が誰にかはわかります。会話の中だけで敬語がやり取りされているのではなく、作者が自分より目上の人には敬語で表現します。なので、天皇となると文中でも普通の言葉では畏れ多いと天皇自身の言葉なのに自分に敬語を使っている文がたくさんあります。
実際の会話はこのとおりではなかったはずです。実際の会話表現が文で表されるようになるのは江戸時代後期からです。
もずらいとさん、どうもです。
ふへっ・・・「敬語」っすか・・・
勉強ってか、わかっておかないといけないことが増える・・・
>と疑問を持つことが多く、私は読んでてわけがわからなくなることが多い
>んだけど、昔の人にとってはまったく問題が無かったのかな?
文なので敬語に着目すれば誰が誰にかはわかります。会話の中だけで敬語がやり取りされているのではなく、作者が自分より目上の人には敬語で表現します。なので、天皇となると文中でも普通の言葉では畏れ多いと天皇自身の言葉なのに自分に敬語を使っている文がたくさんあります。
実際の会話はこのとおりではなかったはずです。実際の会話表現が文で表されるようになるのは江戸時代後期からです。