ワイマル共和国 林健太郎著 第10章(経済恐慌の襲来)
再掲
完全失業
戦前(1913?) 28%
1925 ほとんど失業者なくなる
その後、産業合理化で失業者増大
1927以後 減少
1928 5% (65万人)週48時間労働が80%
失業者数と労働者65万人が全体の5%と計算すると
1929冬 (200万人越え)15%
1930年 (350万人) 27%
失業者数が増え、失業保険の支払いで国家財政の危機に
1928.5 総選挙。国民生活の安定により、
社民党 153(躍進)
国家人民党 73(マイナス。2/3に)
ナチス 12(マイナス)
国民生活が安定していれば極右政党から票は離れる。
1929.6 ヤング案(賠償のドーズ案以後)シュトレーゼマンがまとめた。
以後37年間年平均20億マルク
その後22年間よりわずかの金額を支払う
多くの留保条件がつけられていたので、
絶対支払額は年6億マルク
また賠償を「政治的なもの」から「商業的なもの」へ
(!?37年ローンとか気が遠くなるよね
でもって、22年を足すとほぼ60年!!!)
ある意味ドイツにとって「大成功」であったが、
右翼は反対闘争をした。
フーゲンベルク、ゼルテ、ヒトラーが手を組んだ。
再掲ドーズ案
1924.4 ドーズ案 ドイツに8億マルクの借款を与えてドイツ経済の復興を図る
初年度10億マルク支払い
1928-9年度までに25億マルク
6年目以降は実情に応じて
(つまり年25億マルク支払ってきたのを6億マルクまでねぎった、ということやな。しかし全部合わせて60年も払わせ続けるって・・・そら嫌になるなあ・・・)
1929.10 シュトレーゼマン死す
増大する失業保険の財源として
労使双方が賃金の3%拠出をしていたのを
3.5%にする法案成立。
(この特に資本家から強い反対を受けた法案を
通すための難しい根回しがシュトレーゼマンの
最後の仕事となった)
1929.10.24 10:25 ウォール街「暗黒の木曜日」
1929.12 ヒトラーたちがヤング案反対の人民要求・人民投票をしたが、
580万票で敗退した。
(共産・社民の君主財産没収案はやはり敗退だったが、
1500万票を獲得している)
1929.12.25 蔵相ヒルファーディング辞職
シャハト(ライヒスバンク総裁)の批判によって
林氏のシャハト評
「彼は直感的な把握力と実行力に富んでおり、たしかにすぐれた財政家であることにはまちがいはなかった。しかし彼には一貫した思想はなく、また致命的なことに、何の理想もなかった。そこにあるのはただ個人的な野心と巧みな処世術だけであって、彼はこのとき、老齢のヒンデンブルクのつぎの大統領をねらっていたのである。その彼の野望は満たされなかったが、やがて彼は、彼が援助したヒトラーのもとでライヒスバンク総裁と経済相を兼任し、ついでヒトラーと離れて反対派の陣営に入り、ニュルンベルク裁判で無罪の宣告を受けた」
(この本の中で、林さんの人物評って、結構クソミソな感じで書いてること多い・・・)
1930.1 ヤング案の列国の承認
この後、失業保険問題が再燃。
1930.3.27 拠出金3.75%案が社民党内で反対されミューラー内閣倒壊。
1930.3.28 ブリューニング内閣
国防軍シュライヒャーの暗躍
もずらいとさんからのコメントがつきました。
> シャハトが大統領を狙っていた?
>彼は自分の力を存分にイカしてくれる人
>の下で自由にやりたかっただけです。
そうなんですか・・・
> 世界恐慌に当時のドイツは全く対応できませんでした。
>今では生家の強制収容も取りざたされているヒトラー
>ですが、元々芸術化志向(「たくさん働いたら人間は
>豊かになれない」的な)だったので、ヒトラー政権では
>労働時間の制限や長期休暇の実施と低廉での外国旅行、
>アウトバーンの労働者宿舎も劇的に向上したので
>「我らが総統」になったのです。
確かにそうみたいですね。
大衆に人気が無ければ強い力は持てないと思います。
また多くの人たちは様々なことを
「ヒトラーにやらされた」わけではなく、
「生きがいがあるからやった」のだと思うのですね。
しかし、一部の者はもうとんでもないことをされた。
そのあたりの経緯を知りたくて、今、ワイマール共和国のことを勉強しています。
世界恐慌に当時のドイツは全く対応できませんでした。今では生家の強制収容も取りざたされているヒトラーですが、元々芸術化志向(「たくさん働いたら人間は豊かになれない」的な)だったので、ヒトラー政権では労働時間の制限や長期休暇の実施と低廉での外国旅行、アウトバーンの労働者宿舎も劇的に向上したので「我らが総統」になったのです。