1922.11.14 クーノ内閣成立
ワイマル共和国で国会の承認を受けず、
大統領権限で就任した最初の首相。
林健太郎氏の評価は低いけど、でも、Wikipediaを見ると、リベラルな経済専門家であり、専門家集団の内閣を作ったみたいなんだけど・・・
大きな波に対する剛腕はなかった、ということかな・・・
むつかしいなあ。
1923.1.11 フランス軍とベルギー軍が、ルール地方を占領
ドイツのポーランド侵攻が非難されるけど、この頃ってどこの国も「力こそ正義。取れるものは取る」みたいな雰囲気やったんやな。
クーノはルール地方に対して占領軍の指示に従わない「消極的抵抗」を呼び掛けた。それにたいする財政支出(給与補填)がドイツの財政を苦しめた。また「消極的抵抗」ではなく、特に右翼による「積極的抵抗(フランスへの軍事行動や破壊工作)」が頻繁に起った。
国防軍のゼークトも義勇兵(闇国防軍)を組織した。
財政の問題はインフレーションへ。
第一の原因 それ以前から軍事費を直接課税でなく、
公債で賄っていたこと戦勝の戦利品を
あてにしていたのが、負けてしまった。
第二の原因 復員兵や失業者への救済にお金がかかった
第三の原因 産業の停滞
第四の原因 多額の賠償
で、貨幣価値が下落
対策として課税強化しようとしたが反対されできなかった
金マルク 紙幣マルク
1919 1 1.95
1923初頭 1 1807.83
1923秋 レンテマルク発行
1兆マルクを新1マルクと交換
これは純粋な通貨インフレ
↓
給料賃金実質的に切り下げ
↓
周囲の国に対して生産コストが下がり海外輸出が有利に
↓
資本家(特に大資本)大もうけ
しかし中産階級は大打撃を受け、没落し、ワイマル共和国とヴェルサイユ条約を恨むようになった。中小企業も次々と破綻した。
そしてコンツェルンが出現した。
1923.8 クーノ辞職。議会で不信任された。
シュトレーゼマン内閣成立(3か月で終り。
なお1926年にノーベル平和賞を受賞)
シュトレーゼマン本人(Wikipediaより)
しかしシュトレーゼマンといえばこの人だよな・・・
1923.9.26 ルール地方の「消極的抵抗」を一方的に中止
右翼からは非難された
1923.11.15 レンテン・マルク発行
マルクの信用が安定
シュトレーゼマンが上の2策を断行したことで安定した。しかし・・・内閣は11月に倒れたんやなあ・・・
この頃、バイエルン地方、ミュンヘンでヒトラーが頭角を表す。
ビアホール、ホーフブロイハウスでのナチスの集会にはヒトラーの演説を聞くために数千人の聴衆が集まった。
この頃は大資本家からの献金は無く、熱心な支持者や党員(これらはほとんど下層中産階級や青年層)からの拠金で成り立っていた。
政策綱領
・戦争やインフレによって儲けた投機業者の財産没収
・大企業の国営(!社会主義じゃん)
そのための
・ユダヤ人追放
・ヴェルサイユ条約破棄
1921 ヒトラーがナチスの党首に。突撃隊できる。
(わーーん。書いてきた時代と前後する・・・)
1923秋 党員5万人越え
1923.9.16 のルール地方での「消極的抵抗」の中止令が出たさい
バイエルン政権は、「非常事態」を宣言し、
カールを「国家総監」に任命した
(で、林健太郎さんの記述、時々文の主語が何なのかわからなくなる・・・)
1923.11.8 ミュンヘン一揆
カールたちの集会がビアホール・ビュルガーブロイケラーで開かれている時、ヒトラーが突撃隊とともに闖入。発砲してドイツの臨時政府指導者に就任する、と宣言。とりあえずカールは賛成したが、脱出後、反ヒトラーに転じる。
ナチスは警官隊により鎮圧され、ヒトラーは逮捕された。(死者14人)
ビアホールで集会か。
でっかい体育館みたいなビアホールなんやね。
カフェで議論とか、ビアホールで議論とか、なかなか日本でそんな場所ないかもだけど、あるといい場所なのかもしれない。まあ、上記の場合は良くなかったのか??