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 あくまでも、私個人の意見です。

2016年02月25日

ワイマル共和国 林健太郎著 第5章(カップ一揆)





話は少し戻って

1918.11以来 労兵協議会中央委員会は議会に権限を引き渡して解散
     しかし、各地の労兵協議会は権力を掌握
          ↓
     義勇軍が労働者を殺傷する
          ↓
     ノスケが悪者になる

ミュンヘン共産党政権崩壊
アイスナー(独立社会民主党員ではあるが、プロレタリア独裁主義者ではなく独特の理想主義者)
ミュンヘンで連合政権を作り、選挙をした。選挙としては惨敗であったが、議会を招集した日に右翼の青年貴族に狙撃されて死んだ。
そこで無政府主義者の政府ができたが、共産党が1週間後に革命を起し政権掌握。
レーニン(コミンテルン)は期待をかけるが、ベルリン政府(社会民主党)が軍を派遣し、壊滅。指導者で殺された者も多数だが、市民も多数殺された。しかし共産党も逃げる前に人質を銃殺。
(もう、どっちの陣営も人の命なんてどうでもいい、って状態か・・・)


話はそれるけど、バイエルンと言えば・・・
BMW(ビーエムダブリュー、ドイツ語: Bayerische Motoren WerkeAG、バイエルン発動機製造株式会社)
   ドイツのバイエルン州ミュンヘンを拠点とする自動車および自動二輪車、エンジンメーカーである。
   設立1917年 まさにこの頃やん。


バイエルンはドイツで最も保守的→最も早く王政転覆→中央政府より左翼的な州政府→共産党州政府→国軍が州政府打倒→右傾化
基本的な土壌は保守というか、多くの人は「革命」は望んでなかったのだろう。
駐屯した国軍が将校兵士の中から右翼思想の闘士を養成→一般市民への「啓蒙活動」
この中から生まれたのがアドルフ・ヒトラー。

「匕首伝説」
ドイツは戦争で負けたのではない。後ろから「革命」という匕首で刺されたのだ。
(しかし革命の3か月前にルーデンドルフ(ヒンデンブルクの下で参謀本部次長)が「戦局は絶望である」と言っているから、本当のところ負けたのは革命のせいではない)


1920.3.13 カップ一揆
      ベルリン郊外の2つの旅団がベルリンに進撃。
      カップ首班の内閣を作った。
      しかしベルリンの人たちがゼネストで対抗。
      ドレスデン、シュトゥットガルドと移動した社会民主党政権は交渉を拒否。
      4日後、カップは逃亡。

 しかしその後の後始末でノスケは職を辞し、後任の国防省としてゲスラーが国防省になったが、ノスケはある程度軍をコントロールしていたのに対し、ゲスラーはコントロールできなかった。

 軍統帥部長官ラインハルトが辞任した後任にゲスラーはゼークトを選んでしまった。
ゼークトは軍を「国家の中の国家」としていった。

 で、この当時、ルール地方やレーテ地方には中央政権の力が及びにくく、暴力革命を指向する人たちが権力を握り、それをまた軍が鎮圧という、中間の民主主義指向の人たちはかやの外でテロと暗殺の事態が繰り広げられてと。

 これはワイマル共和国全体でも。
 極右と極左が伸びるという事態。
 左右分極化。

1920.6.6 総選挙。
   ↑  国家人民党71議席(右翼)
  より右 人民党65議席(人民党という名前だが右翼)
      バイエルン人民党21議席(中央党から割れた。中央党より右に位置)
      中央党64議席
      社会民主党102議席(1/3になった)
      民主党39議席(↓36名減)
  より左 独立社会人民党84議席(第二党になった)
   ↓  共産党4議席(初獲得)

 う〜〜ん、左右の位置、合ってるのかな?
 民主党ってのがよくわからない。
 この選挙で社会民主党は政権から退き、中央党・人民党・民主党の三党連合が政権についた。(しかし過半数に届いていない。この後の政権はどれも短命)


posted by kingstone at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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