「調べる」論 木村俊介著
「現実の解決策は、面倒な作業の後にしか見つからない」
本田由紀
教育学者、博士(教育学)。
東京大学教授。
専門は教育社会学。
「私がいいかげんだなと感じるのは、社会の問題に対して誰かをモンスターのように仕立て上げて敵にしてみたり、あるいはすばらしい価値があるように見えて誰も逆らえないかに見える正論を言ったりもするけれど、問題そのものは放置されていくという風潮に対してです。予算もかかるが実効性はある、そういう必要な解決策が講じられないまま世の中がどんどんひどくなる状況には、もう我慢ができないんですよ」
「誰かをモンスターのように・・・」とかいうのは、例えば「ゆとり教育が悪い」とかいうやつかな。またその例で言うと
「若者をめぐる年長者のお喋りはやめよう」
というのは、「この頃の若いもんは」とか「これだからゆとりは」とか言うような言説だよな。
実際、私が周囲で見る若者たちは、みんなすごくいろいろやってるな、勉強してるな、というのが実感なんだけどね。(そりゃまあ「私の周囲」という時点でバイアスかかりまくりかもしれない)
で、私が高校・大学の時って、ほんと勉強しなかったし、勉強しないもんだから周囲に留年するやついっぱいいたし・・・(まじめに勉強して大企業に入る奴もいないわけじゃなかったけど。で、これまた「私の周囲」という時点でバイアスかかりまくりかもしれない)
「『若者と仕事』の時の私は、社会で若者を守るものを「専門性」と言ってしまうだけで終わらせてしまうみたいな側面もありました」
(中略)
「そこで今回の本(「教育の職業的意義」ちくま新書)では冒頭に「あらかじめの反論」という章を書かなければ議論を先に進められなかったんです。そこでは「専門性」について、若者にとって柔軟な武器になってくれるであろうものとして詳しく触れています」
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「『教育の職業的意義』は書くのに時間がかかり、苦しみ、原稿を書き終えて数ケ月は経っているのですが、今も脱力が続いているんです。自分の議論は我ながら細い線を辿っているなとも思う。教育の職業的意義は、一歩間違えば社会の歯車としての人材を要請するような旧来型の職業教育になり、別の方に間違えばキャリア教育的な、「やりたいことを考えよう」みたいなものにもずれてしまう。その隙間をつく議論をしているつもりではあるんです。
すると、どんな立場からも「私とは対立する側に立っている」と思われ、それがいくつもの方向に広がり四面楚歌的になるというところはあるんですよ。しかも、すごくドラスティックな改革について語っているかのようにも受けとめられてしまう。」
この感じ、わかる。
「つまり、私は90年代に多くの若者が陥った状況を少し早めに経験していた。だからこそ90年代以降の現象に深入りしてしまい、思い入れを持って研究をしているとも思うんです。それ以降の若者が置かれた状況は、自分か経験したままのようにも感じられるので。
ただ、そう言ったとたんに「本田由紀の存在意義は、世の中にルサンチマンを唱えること以外にあるのか?」みたいにネットで書かれたりもします。そう書かれてみれば、確かに自分はルサンチマンで研究を続けているようなものだと思っちゃったりもするんですね。だから何と言うか、へこむと同時にそうせざるをえないとも思うし、逆にそれしか意義がないんだったらルサンチマンを唱えきってやろうじゃないかとさえ考えているんですけど。」
ええんちゃうかな。
私自身の原動力は「恨み(ルサンチマン)」ではなく「怒り」と「悲しみ」だけど。
目の前で威嚇と暴力が行われていた。それに対し、自分のできる範囲では「そうでないもの」を学校に取り入れようとしたけれど、その時点の私が担当している以外の子どもたちには(つまり学校全体には)無力だった。
そしてまた私が「とってもえらい人たち」から罵倒されて来た。
そういうことに対する怒り。
また現在なら、「何で、この子たちが、未だにちゃんと理解されず、不適切な行動をとらされているのか」。そういう「怒り」。
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