昨日、加古川市にある鶴林寺に行って来ました。
Wikipediaによると、この播磨地方には、聖徳太子が創建した、という話が伝わっているお寺が多いのですね。
鶴林寺もそういうお寺のひとつです。
天台宗。
でもその伝承が、高句麗僧の恵便が聖徳太子の時代に日本にやってきたのだけど、当時は崇仏派と排仏派の対立がひどかったので、僧とわかれば殺されるかもしれないと、還俗して隠れ住んでいたところ、聖徳太子が恵便のために鶴林寺を建て、仏教を学んだ、という結構面白い話です。
Wikipediaには高麗僧となっていますが、鶴林寺のパンフレットでは高句麗僧となっています。
こちらに結構詳しく書いてはりますね。
仏法を広めた播磨国の恵便(えべん)
私は仏教伝来は538年(仏教が来てごさんぱい)と覚えたのですが、これは元興寺縁起により、552年説は日本書紀によると。へえ。
で、538年から約30年後、恵便は高句麗から遣わされたのだけど、どういう感じでなんだろう。高句麗王からの使節としてだろうか、それともイエズス会のザビエルみたいに国としてではなくある意味ボランティアとして?(まあ植民地支配の尖兵みたいな役割もあったのだろうけど)
でも当時の日本(って国名は無かったか?)での仏教迫害は半端じゃないから、還俗して播磨地方に身を隠していたと。
そのあたり、584年に恵便(この時期は既に公然化してるわけね)の弟子になった善信尼は、
翌585年(敏達天皇14年)3月、物部守屋による廃仏運動により法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。
やもんなあ・・・
なお、善信尼は
父は司馬達等。
仏師・鞍作止利の叔母にあたる。
名は嶋。
恵善尼や禅蔵尼とともに日本最初の尼僧の一人。
だって。
で、時代は前後するかもだけど、隠れ住んでいた恵便を大和朝廷が見つけ、聖徳太子が恵便に教えを請いにやってきた。そして寺を作ったのが鶴林寺の始まりであると。当時、太子は12歳(今なら小学校6年生か中学校1年生だよ)で、当時の長髪でみづらも結っていない太子像が鶴林寺にはありました。
斑鳩の里から、播磨地方まで、12歳の少年が歩いて来るかなあ、とも思うけど、当時の人は歩くのが当たり前のことで、私が「ヒエーーッ、そんなところまで歩くの!?」と思ってるような距離を歩くのはごく普通のことだったんだろうか?(まあもともとが伝説なんだけど・・・)
また高句麗の人が「隠れ住む」のは簡単だったのかな?
播磨地方土着の(といってもより大昔から渡来して来てた人たちかもしれないけど)伊和大神(いわおおかみ)が新羅から来た天日槍命(あめのひぼこのみこと)と瀬戸内海に注ぐ揖保川河口で戦い、北方に逃げたら山の中でまた渡来人に会い「先回りされたか」と思ったけど、実はもともとそのあたりに鉄を求めて以前から入って来てた人たちだった、という話もある。
もともと「国」という概念はあったんだろうか?
高句麗からきた人も住みやすかったんだろうか?
アメノヒボコ VS オホナムチ 揖保の地名起源(「播磨国風土記」より)
天日槍最後の戦い(「播磨国風土記」より)
結局、崇仏派と排仏派の戦いは丁未の乱(587年)に物部守屋が殺されて勝負がついていますね。
その後は恵便も生き安かったかな。
でも、崇仏といっても(しかたないとはいえ)血なまぐさいですよね。