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2015年12月20日

やがて哀しき外国語 村上春樹著






やがて哀しき外国語 村上春樹著
1994.2.25 第1刷発行
1992.8〜1993.11 雑誌「本」に連載された

村上春樹

1991年プリンストン大学客員教授として招聘される

 1984年に村上さんがプリンストンに行った時、タクシーに相乗りしたら、1人の黒人客がヘアスプレーをかけ出して止まらなくなり、白人運転手が途中でおろした、ということがあったと。で「ラリっていたのかもしれない」と書かれてる。その後、運転手が
「昔はあんなのはここにいなかった」
「でもな、ビジネス団地なんかをこの近郊に誘致したせいで、あの手のやつらがずいぶん入ってくるようになったんだ。あと何年かたったらこの辺もどうなっていることやら、まったく」

と言ってたそう。

 しかし、1991年でも、プリンストンは浮き世離れした郊外都市だったとのこと。

 でも、プリンストンが、というよりアメリカ自身が変わってしまった部分はあるかも、と。

「この国を内側からつぶさに見ていると、勝って勝って勝ちまくるというのもけっこう大変なことなのだなあとつくづく痛感する。ベトナムでは挫折があったものの、確かにこの国は冷戦にも勝ったし、湾岸戦争にも勝った。でもそれで人々が幸せになれたかというと、決してそうではなかったようだ。人々は十年前に比べてより多くの重い問題を抱えて、そのことでいくぶん戸惑っているように見える。国でも人間でも、挫折や敗北というものが何かの節目においてやはり必要とされるのかもしれないという気がする。でもだからといってアメリカにとって代わるだけの明確かつ強力な価値観を提供できる国家が現在他にあるかというと、これはない。そういう意味では、現在の一般的アメリカ人が感じている深い疲弊の感覚は、現在の日本人が感じているむずむずした居心地の悪さと裏表をなすものではないかと感じる。」

もともとニュージャージー州プリンストンは、
1746 ニュージャージー大学創立
1756 ニュージャージー大学がプリンストンに移ってきてプリンストン大学となる。
   (1756年は宝暦6年。
    この頃、安藤昌益が「自然真営道」を著し、
    東北大飢饉が起こる。
    また本居宣長が賀茂真淵に松坂で弟子入り
    したのは1763年宝暦13年。
    ちなみに1756年はモーツァルトが生まれた年)

 ということで学術都市の面が大きかったのが、交通機関の整備によってニューヨークやフィラデルフィアへの郊外都市の側面も持つようになり、それでもより発展を願ってビジネス団地を作ったということなんだろうな。

 なお、1915年にプリンストン高校が開校している。当時、学校は人種別が当然であった時代に人種共学校だったって。また上のWikipediaによると

 プリンストンの全ての学校で全人種共学になったのは、1947年にニュージャージー州憲法で公立学校および民兵における人種隔離が禁止されてからのことである。

 ってことだから、かなり先進的に人種隔離を無くそうとしていた地域であることがわかる。

 で、プリンストンは学術都市だし、村上さんも客員教授だし、つきあう人たちはインテリであったりお金持ちであったりするわけで、そういう人たちは「人種差別的な発言はしない」ことで徹底している。村上さん自身、一度だけ知り合いの家で、ある年をとった元教授が「君たちジャップが・・・」と言ったとたんシーンとしてしまい、あとでホストが「彼には悪意は無かったんだ」ととりなして(?)くれたそう。

 しかし、現実には、彼らが「あの町のここから北には行ってはいけないよ」と忠告してくれたりするのだけど、その地域の住民の94%が黒人だったりする、という現実はあったとのこと。

 それは「人種差別」ではなく「危険な地域か危険でない地域か」の情報を伝えているだけだから別にいい、という話になるんだろうな。

 私自身、若い時、友人のお見舞いに行くのに知らない町の駅で降り、夜道を歩いて病院まで行ったことがある。そしたらお見舞いに来ていた友人から「えっ。あそこ夜歩いちゃいけません」と言われ、「いやあ、もし危ない目にあったら、あったでええんちゃう」とこたえたらそこから延々と議論になったことがあったな。彼に言わせると「僕はkingstoneさんのためを思って言ってあげたのに」というわけ。まあ難しいことではあるけどね。
 でも、日本だと、真夜中だとどこでも危険には違いなく、お見舞いに行くような時間なら夜でもだいたいは安全だと思うけどなあ。
   

 クエーカー教徒(イギリスでチョコレート産業を大きくしたり、労働問題から福祉政策に大きな力を及ぼした人たち)は、南北戦争によって奴隷制度が廃止される前の時代に、逃亡奴隷を官憲の目から匿い、南部から逃げて来た黒人奴隷を自由州かカナダまで逃がすための「アンダーグラウンド・レイルロード」という秘密ルートを作り上げていた。で、その中継点にある家には忍者屋敷みたいにたくさんの隠し部屋があったんだって。


愛国的雰囲気について

1990年8月に湾岸戦争(フセインのイラクが、クゥエートに侵攻したことがきっかけとなり、多国籍軍がイラクを攻撃した)


 プリンストン大学でデモを見かけたので、村上さんは「おお、反戦デモやってる」と思ってよく見たら「プロ・ウォー(戦争賛成)」のデモだったって。

 で、当時の「愛国的雰囲気」は日本人としての村上さんにとって結構いごこちの悪いものだったそう。


大学について

 この1991年頃のアメリカの大学でも財政難で、以前はテニュア(終身雇用権)さえ取ってしまえば一安心という感じだったのが、学部自体がばっさり無くなれば終り、みたいなふうになってたって。
 今の日本だけが厳しいわけじゃないんだな。


 
黒人タクシードライバーとの話

ドラ「あんた、ピアニストのバリー・ハリス知ってるか?」
村上「知ってる。良いピアニストだ」
   (元ジャズ喫茶店長だもんね)
ドラ「あれも俺の友達なんだ。あいつが言ってた。
   日本に行ったらみんな王侯貴族みたいにもてなされる
   ( treated like a king )んだって。道を歩いていたら、
   みんなが寄ってきてサインしてくれって言うんだって。
   あいつは本当にびっくりしてたよ、うん。
   びっくりして感激してた。
   だってな、バリーがニューヨークを歩いてたって
   誰も見向きもしないよ。
   みんなただ絞り上げられたり、小突き回されるだけだ。
   なああんた、ここの国では俺たちはみんなほんとうに
   犬のように扱われる( treated like a dog )んだよ、
   オー・ヤー」
posted by kingstone at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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