おはようございます。
曇りです。
昨日の
11月6日(金曜日) 讃容郡(さよのこおり)(「播磨国風土記」より)
でとりあげた、サヨツヒメの「鹿の血を田にまき、豊作にした」というエピソードの、血をとった鹿を放り出した所が鹿庭山(かにわやま)ということも書かれています。
今も讃容の町田あり。即ち、鹿を放ちし山を鹿庭山と号(なづ)く。山の四面(よも)に十二(とおあまりふたつ)の谷あり。皆、鉄(まがね)を生(いだ)す。難波の豊前(とよさき)の朝廷(みかど)に始めて進(たてまつ)りき。見顕(みあらわ)しし人は別部(わけべ)の犬、其の孫等(うまごら)奉発(たてまつ)り初めき。
鹿を放り出した地の周囲の12個の谷から鉄が見つかった。孝徳天皇の時に初めて献上した。ってことですね。で、それを発見したのは「別部の犬(わけべのいぬ)」の人だと。別部とは。和気氏の部眠。
垂仁天皇の息子に鐸石別命(たくいしわけのみこと)という人がおり、この人が和気氏の先祖。
鐸は「銅鐸」の「鐸」であり、金属と深いつながりがある。
つまり和気氏はもともと金属に関する知識・技術のある人たちの集団と考えて良い。
また犬も花咲か爺さんの例に出てくるように金属と関係がある。
「別部の犬」は、身分の低い金属労働者と考えられる。
鹿庭山は今は「大撫山」と呼ばれている。