藤沢道郎著
第3章は、カノッサの女伯マティルデについて書かれてるんだけど、カノッサの屈辱としての方が有名だよね。
11世紀 最盛期は人口200万人を誇っていたローマも
人口が2万人になっていた。(なんちゅう人口激減)
シルクロードに続く道やローマを縦横に走っていた
道路網も寸断されていた時代。
地中海の制海権はイスラムに。(サラセン海賊)
東からはマジャール人。
北からはノルマン人。
ラテン語は各地の方言に分解し、蛮族諸語と混交。
そのヨーロッパが何らかの統一を保っていたのは
キリスト教による。東(コンスタンティノープル)
とは仲が悪くなり、絶縁。
で、著者はその教会の組織(教皇を頂点とした整然としたピラミッド)に合わせて俗界の皇帝を頂点とし、領主階級が王公侯伯となるような組織ができ(神聖ローマ帝国)たが、しかしイタリア貴族は皇帝権は結構無視していたと。
当時カノッサはマティルデの父、ボニファツィオの領地。絶対的な独裁者で、領内の娘たちは彼の許可なしには結婚できず、許可を得るために美しい娘は初夜を捧げ、醜い娘は冥加金を払わねばならなかった。恨みをかっていたので、毒矢で暗殺された。
未亡人となったベアトリーチェ(マティルデの母)は、ゴッフレードと再婚して後ろ盾にしようと思うが、攻められたゴッフレードは遁走。ベアトリーチェとマティルデは、ハインリヒ3世に捕まる。しかしハインリヒ3世の死後、ゴッフレードが力を盛り返す。
1069年 ゴッフレード没。
しかしベアトリーチェは教皇庁を実質的に
切り回していた修道士イルデブランドの
後ろ盾を得るようになっていた。
1073年 イルデブランドはグレゴリウス7世となる。
マティルデは猛女として知られていたが、
イルデブランドの言うことは何でも聞く
(崇拝していた)し、「できてた」説もある。
カノッサの屈辱
1075年 グレゴリウス7世、俗人の聖職者叙任を禁止。
(叙任権闘争)
ハインリヒ4世は無視の上、ドイツ司教会議で
教皇廃位(理由としてはマティルデとの醜聞も)
を決め書簡をグレゴリウスへ。
1076年 書簡が届き、グレゴリウスはハインリヒの
破門・廃位を決定。
1077年 状況が悪くなったハインリヒは、カノッサに出向き、
謝罪することに。
1月25日。酷寒の中、裸足で粗末な毛の外套だけに
身をつつみ、城門の前で3日間、謝った。
これで破門が解除された。
これでマティルデとグレゴリウスは快哉を叫んだのだが・・・
1080年 ドイツの諸侯・司祭を糾合していたハインリヒ軍が
進撃開始。ローマも包囲し、教皇グレゴリウスは
聖天使城に4年間籠城。
1085年 グレゴリウス、ノルマン軍団によって解放されたが、
ノルマン軍団の略奪暴行放火で民衆の怒りが爆発、
グレゴリウスもノルマン軍団とともに逃げ出し、
サレルノで憤死。
この後、ハインリヒ4世は権力を握ったかと思ったら、マティルデの謀略で妻子に裏切られたり、もうたいへん・・・
なお、その後、マティルデが擁立した教皇がウルバヌス2世。
1095年11月 ウルバヌス2世、十字軍布告。
「諸君の今住む土地はあまりに狭い、耕しても耕しても充分な食物を与えてくれない。そのため諸君は互いに争い、殺し合い、多くが内乱で身を滅ぼしている。そんなことで憎み合うことは止めよう、内乱に終止符を打とうではないか。聖墓への道を進め、その地を邪悪な異教徒から奪回して諸君のものとせよ、エルサレムは肥沃な歓喜の園だ!」
ひどいな・・・
「狭い日本にゃ住み飽きた」というセリフを思い起こさせる・・・
どちらも内政問題を外征や植民地化で解決しようということを意識的にやってるわけやな。
まあ、「今の常識」で昔のことを判断してはいけないのかもしれないが、現地の人にとってはどちらも迷惑きわまりなかったろうな。
1095年というのは真言宗中興の祖と呼ばれる覚鑁が生まれた年。覚鑁は高野山で反対派に襲われた後に根来寺を開いている。
皇女ガラ・プラキディアの物語(「物語 イタリアの歴史」より)
聖者フランチェスコの物語
物語 イタリアの歴史 II 藤沢道郎著