第一話 皇女ガラ・プラキディアの物語
Wikipedia テオドシウス1世の項目を見ると
ガラ・プラキディア
370年〜375年 - 394年
で、テオドシウス1世の後妻になってる。で、生まれた女の子がガッラ・プラキディア。ややこしや・・・
4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。ってことは、イタリアが中心では無くなった、ということやな。ローマ帝国が東ローマ帝国と西ローマ帝国とに、割りとはっきり別れたのは、395年のテオドシウス1世の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになってから。
で、西ローマ帝国は480年頃に滅んだとされるから、ガラ・プラキディアは、その少し前の時代を生きた人。
私は、昔、「ローマはなぜ滅んだか」弓削達著(講談社現代新書)ってのを読んだのだけど、なぜ滅んだのかさっぱりわからなかったです。
でも「物語 イタリアの歴史」の藤沢道郎さんの説明は、私にとってはめちゃめちゃわかりやすかったです。
曰く
アジアの遊牧民フン族が西へ移動し始めた。西ゴート族は対岸のローマ帝国守備隊に助けを求めた。「手を振り、泣きながら、船橋を架けて渡してほしいと哀願を繰り返した」という状態だったが、最初は断り、皇帝の許可が後に出たが過酷な条件がついていた。
武器をすべて引き渡し、子どもを全員ローマ帝国に差し出すこと。
また帝国官僚の大小のボスたちが、西ゴート人の財産を洗いざらい収奪し、頑丈な若者や美しい娘を奴隷にし、他のゴート人は身ぐるみはいで飢えと寒さの中に放り出した。
それで憎悪が蓄積し、ついに暴動となり、もともといたゴート人奴隷も呼応し、反乱を起こした。この反乱は当時スペインに隠棲していたテオドシウスが鎮圧したが、このような事件が続き、かつもともとのローマ市民は「パンとサーカス」で骨ぬきになっており役に立たないようになっていた。実質、軍隊などでも役に立つのは蛮族しかいなくなっていた。しかしローマ市民はプライドだけは高く、蛮族に偏見を持ち、差別していた。(なんか現代日本でもありそうな・・・)
当時、勤勉で役に立つ人々というのは蛮族以外にはキリスト教徒しかいなかった。
392年、テオドシウスがキリスト教を国教と定めたのは信仰があつかったというわけではなく、キリスト教徒を利用するためにそうするしかなかったため。(しかし・・・そうなればそうなったで、原理主義的な一群が古代ローマの宗教施設等を破壊してまわったと。これまた最近どこかであるよなあ・・・やっぱり原理主義的なのは嫌だなあ・・・)
なお、キリスト教の公認はコンスタンティヌス帝の313年。「ミラノ勅令」による。
で、なんやかんやあって、結局は西ゴート人に滅ぼされた、ってことらしい。