今、世界史づいてて、先日読んだ
「物語 イタリアの歴史 II」
皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで
藤沢道郎著
(中公新書)
が面白かったので、その元の本も買って来ました。
「物語 イタリアの歴史」
この中の
第3話 聖者フランチェスコの物語
私、「アッシジのフランチェスコ」という本を読んで、メモを取ろうと思ってまとめを作りかけて止まってました。
「アッシジのフランチェスコ」を読む
法廷(町の広場)で父から「養育するのにかかった費用も全て返せ」と言われ、着ているものも全て脱ぎ、まっ裸になったところまでですね。(しかし・・・もちろん、本当はそんなもんじゃ足りないでしょうが・・・)
でもこっちだと24Pほどだから読めそうだ、と挑戦。
1210 フランチェスコたちは教皇イノケンティウス3世の
前でひれ伏し、新修道会を作る許可をもらおうとしていた。
当時は、カトリックがワルド派、パタリ派、アルビ派
などの清貧を主張し、カトリックの現状を批判する勢力を
異端として攻撃しようという時代。
藤沢氏によると、教皇の周囲には、同じように「清貧を尊び、家族を捨て、生業を捨てて野山に伏し、善行を行って報酬を求めず、托鉢だけで露命をつなぎ、感謝の祈りを欠かさない」フランチェスコたちも同じようなもので、許可をするのは危険だ、という意見が多かったが、イノケンティウスは、「だからこそ民衆を引きつける『正当カトリック』の聖人が必要」という判断で、夢見にかこつけて許可を出したと。
で、ある意味、それは大成功する。
1210年といえば、土佐に流罪になった法然が、1207年に赦免され、摂津の勝尾寺にいた頃。
親鸞も越後国国府(現、新潟県上越市)に流罪となり、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活をしていた頃。
当時のイタリアやヨーロッパ全体は荒地森林開拓と農業技術の進展で経済的に豊かになって来て、何を思ったか十字軍の遠征を始める。しかしヨーロッパはイスラムを馬鹿にしていたが、実際に戦い、また実際に接触すると、当時のヨーロッパよりはるかに高い文明や新奇な文物にびっくり仰天していた状態。
当時ヨーロッパで失われていたギリシアの思想、特にアリストテレス哲学の合理的な考え方が再発見される。キリスト教神学にアリストテレス思想を初めて取り入れたのがアベラール(あの局部を切り落とされてしまった人ね)
この頃の経済発展で一番うるおったのはカトリック。イタリアの銀行業は、教皇庁に流れ込む、各地の貨幣の両替から始まっている。で、風紀が弛緩してきたので、清貧の生活に戻れというような声が大きくなり、後に異端とされる人々の勢力が強まった。
で、そういう動きへの防波堤としてフランチェスコ修道会は利用された、というわけ。
フランチェスコ自身はあくまでも「本気」で清貧と信仰の生活をしたかったんだけどね。
フランチェスコは「貧しくあることが神への道」と説いていたけれど、これは物質的豊かさだけでなく、精神的・知的豊かさも否定していたんだって。
「知識が豊かになって何になろうか。心貧しいことこそ神の御心に沿うのだ。修道士に学問は要らない、書物も要らない。説教の時は自分の言葉と歌を使えばよい。学問好きで理屈っぽい修道士は、いざという時になす術を知らぬものだ」
むむむむ・・・
1215 第4ラテラーノ公会議に出席するためにローマへ。
フランチェスコは聖職者としてはもっとも位階の低い
助祭の資格しかなかったが、司教より重要な立場だった。
同じような立場で出ていたのがスペイン人修道士
ドメニコ。ドメニコ会を作った。
しかし、フランチェスコ会は人気があり、どんどん規模が大きくなる。すると、「管理」が必要になってくる。フランチェスコ自身はそういうのが大嫌いというか苦手。しかし、弟子に最低限の「管理」は頼まないといけなくなっていた。
既に生前から「厳格派(清貧と信仰)」と「穏健派(管理が必要)」の対立は生まれていた。フランチェスコはそういう「対立」が嫌で、山にこもったりした。小鳥に説教した、というのはその時代。
また、弟子に自分を町に引っ張って行かせ、額に灰をまぶさせ、群衆に罪の告白をしたけれど、余計に聖者視されるようになった。
1226 亡くなる。
道元が南宋で学んでいた頃やな。
で、フランチェスコの死後、大聖堂が建てられる。ここでも「厳格派(大聖堂なんていらない)」と「穏健派(顕彰するために大聖堂を作ろう)」という対立があったが、教皇庁は「穏健派」を支持。
そして「厳格派」は異端として攻撃される。その時にもっとも熱心に異端狩りをしたのはドメニコ会・・・
まあ大聖堂があるおかげでたくさんの人が巡礼してくるようになり、いいこともいっぱいあるんだろうけどね。私も行きたいもん・・・