※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2015年08月16日

物語 イタリアの歴史 II 藤沢道郎著


「チョコレートの世界史 武田尚子著」を読んでから、世界史にはまってます。
 高校時代、10段階の2(赤点)で、まともに勉強したことなかったんですけどね。
 いろいろ読んでみたら面白いなあ・・・

物語 イタリアの歴史 II 藤沢道郎著(中公新書)



 読書メモ

皇帝ハドリアヌス
76〜138(卑弥呼より前)
 要するに・・・市村正親(テルマエ・ロマエ)
 自分がいなくても国政が回るように官僚機構を作り上げ、またローマ帝国を最大版図に広げたトラヤヌス帝亡き後(で妃のプロスティーナがハドリアヌスの愛人)、その版図を「広げず」「守った」そう。
 なお、テヴェレ河沿いにあるカステル・サンタンジェロ(聖天使城)は、もともとハドリアヌス在世中に、自分の陵墓として築いた物。後には城として使われた。


大教皇グレゴリウス(グレゴリウス1世)
540〜604(最後の方が飛鳥時代)
590  ペストが流行し、ペスト退散のデモ(日本の「虫追い」やな)をやってた当時、修道院長グレゴリウスと信者たちは、カステル・サンタンジェロ(聖天使城)の上で、天使が剣を鞘におさめるところを見、「これでペストがおさまる」と思い、実際そうなった。
 その後、グレゴリウスは教皇に推挙されたんだけど、逃げ回ったらしい。とにかく難題が多すぎてやってられないと思ったらしい。しかしまあ、仕方なくやることになり、結局、宗門の管理とともに、俗世間の管理(いわば国家行政)の両方をすることになったとか。
 で、ランゴバルド族が虎視眈々とローマを狙ってたんだけど、最終的に、アリウス派のランゴバルド族をアタナシオス派(ニカイア派。つまりカトリック)にすることにより、で攻められる心配を無くしたという・・・
 なお、グレゴリウスの死後、教皇となったサビニアヌスは、グレゴリウスが教会前で貧者に食事を与えていたのをやめさせた。ある日、グレゴリウスはサビニアヌスの夢まくらに立ち、食事を再開してくれるように頼んだ。しかし3日間、サビニアヌスは無視した。すると4日目にグレゴリウスはサビニアヌスを打ち殺してしまった(夢で!!)と・・・


マローツィア夫人
890〜937(平安時代)
 教皇の私生児を産み、また政略結婚で権力を掌握していく。
 ウーゴとカステル・サンタンジェロ(聖天使城)で結婚式をして、そのままそこに住んでいたが、息子アルベリコに捕らえられ、そのまま幽閉され牢死する。
 カトリックが一番腐敗していた時代?
 北からはノルマン海賊
 東からはマジャール人
 南からはイスラム教徒
 攻めらまくっていた時代


アベラール
1079〜1142(十字軍の時代。農業の拡大。平安時代末)
 神学者。「アベラールとエロイーズ」の愛の往復書簡(?)で有名だけど、なんと・・・エロイーズの叔父たちに「局部」を切り取られちゃったんだ・・・往復書簡はその後の話。


アルナルド(アベラールの元で学んだ)
 反教皇派の運動(世俗化したカトリックに対する宗教改革運動)を指導したが、1155年(後白河天皇即位)に異端とされ絞首の上、火あぶりに。(あれ?1154年説もあるのか)


教皇ボニファティウス
1235年〜1303
1300キリスト聖年祭イベントを始め、巡礼が大挙してローマにやってくるようになる。もともとフランスが「教会税を払わない」と言い出し、財政的に困ったので「じゃあこのイベントで稼ぐ」と企画して始めた。ダンテもやって来た。(当時35歳)ただし、ダンテの「神曲」の中でボニファティウスはぼろくそに書かれている。
この頃 カトリックの絶頂期(商業貿易の発展。経済の右肩上がり)
聖フランチェスコ・聖ドメニコなどにより信者の心をつなぎとめ(托鉢修道会を認める)、アルビ派・アルナルド派などは徹底的に弾圧
トマス・アクィナスによる神学の体系化(神学大全)
だいたい鎌倉新仏教の頃に重なる。


ロレンツォ・デ・メディチ
1449〜1492
フィレンツェのメディチ家最盛期の当主
彼の後、メディチ家はフィレンツェを追放されたり、ジリ貧に。
弟(ジュリアーノ。後に暗殺される)が恋い焦がれた人妻の名前がシモネッタ。この名前、まじであったのか・・・
応仁の乱の後あたり。


クリストフォロ・コロンボ
1451〜1506
コロンブスのこと。
イタリア風に呼ぶとこうなるとか。ちなみに
英語風 クリストファー・コランバス
ラテン語風 クリストフォルス・コルンブス
スペイン語風 クリストバル・コロン
ジェノヴァの出身。
アメリカを「発見」したと言われるが、現地の人間にとっては迷惑このうえなかった。(実際Wikipediaを読んでも吐き気がしそうになる)
また藤沢氏によると、イタリアにとっても迷惑この上なかった。イタリアそのもののジリ貧を招いたのだから。実態経済から金融経済に移行していたイタリアが、新大陸で金・銀が見つかったことで貯め込んでいた貨幣の価値が下がり、インフレになり、金融も打撃を受けた。(つまり「長い16世紀」か・・・)


カラヴァッジョ
1571〜1610
画家
「対抗宗教改革のさなか、ローマカトリック教会はプロテスタントへの対抗手段の一つとして自分たちの教義を補強するようなキリスト教美術品を求めるようになる」
で、カラヴァッジョは人気があったみたいだけど、めちゃ無頼派だったみたい。
1600 ジョルダーノ・ブルーノが異端者として火あぶりにされた。これもそれまでだったら、そこまでされなかったのに、宗教改革に対抗するために息が詰まるような雰囲気になってた、とのこと。

1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた
posted by kingstone at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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