微妙だけど、晴れか。
このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
ちょうど季節としては、今頃か、もう少し後かな。
いつの間にか紅葉に・・・
幣(ぬさ・御幣)
神主さんが、お祓いをする時に持ってるやつだな。菅さんって神職なのか?
私はまた「幣」って貴族が持ってる、30cm定規を少し台形にしたようなやつかと思ってた)
手向山八幡宮
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、奈良県奈良市に鎮座する神社。
手向山神社とも。奈良市街東部の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として
知られ、古今和歌集では菅原道真が
「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」
と詠んでいる。
ということで「菅家」って「菅原道真」なんだ。
菅原 道眞(845年 - 903年)
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた
一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、
左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として
左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、
朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれる。
「このたびは、紅葉を見ようとおお急ぎだったので、大事な幣も持って来るのを忘れて、手向山神社に来てしまいました。みごとな紅葉の錦で、神をそこここに感じざるを得ません」
というようなことかな?
もずらいとさんからのコメント
このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
このたび → 「この度」と「この旅」の掛詞です。
幣 → 上や布を紙吹雪のように小さく切ったもので,これを神の前に捧げたそうです。昔のお賽銭というところでしょうか。
取りあへず → 「取り」+「あへず」で「持って」「来ることができませんでした」になります。
手向山 → 奈良にある山だそうで。朱雀院(宇多上皇)のお供でここに寄った時詠んだ歌とされています。「手向け」との掛詞でもあります。
紅葉の錦 → 「幣」の代わりという意味で示しています。
神のまにまに → 「御心のままに」と言う意味です。
意味は「この度(旅)の御幸は慌ただしく出てきたもので,幣の用意ができませんでした。どうか,手向山のこのきれいに色づいた紅葉で手向けとして,どうか御心のままにお納めください」となります。
前任校でこの歌の授業をしたら「まにまに」が気に入ったようで「うちの子が夕食の手伝いのさなかに突然この歌を詠みました」という意味の連絡帳の記載がありました。
菅家は菅原道真で「天神様」と呼ばれるのは、元々は没後,清涼殿に,しかも雨乞いの相談の集まりのさなかに雷雨が直撃し,死傷者が出て「菅原道真の祟りだ」と,つまり「雷様になられた」ということで「天の神=天神」だそうで。
もずらいとさん、どうもです。
>「この度」と「この旅」の掛詞です
一瞬「この旅?おおげさな」と思ったけど、よく考えると御所から奈良まで歩いて来るんですもんね。
これは十分、旅だわ。
>神のまにまに → 「御心のままに」と言う意味です。
「あちこちにある(そのたくさんある間に)」みたいな意味だと思ってました。
そうか「御心のままに」か・・・
>前任校でこの歌の授業をしたら
なんか口調がいいですよね(^^)
歌って、そこらへん、めちゃ大事ですよね。
このたび → 「この度」と「この旅」の掛詞です。
幣 → 上や布を紙吹雪のように小さく切ったもので,これを神の前に捧げたそうです。昔のお賽銭というところでしょうか。
取りあへず → 「取り」+「あへず」で「持って」「来ることができませんでした」になります。
手向山 → 奈良にある山だそうで。朱雀院(宇多上皇)のお供でここに寄った時詠んだ歌とされています。「手向け」との掛詞でもあります。
紅葉の錦 → 「幣」の代わりという意味で示しています。
神のまにまに → 「御心のままに」と言う意味です。
意味は「この度(旅)の御幸は慌ただしく出てきたもので,幣の用意ができませんでした。どうか,手向山のこのきれいに色づいた紅葉で手向けとして,どうか御心のままにお納めください」となります。
前任校でこの歌の授業をしたら「まにまに」が気に入ったようで「うちの子が夕食の手伝いのさなかに突然この歌を詠みました」という意味の連絡帳の記載がありました。
菅家は菅原道真で「天神様」と呼ばれるのは、元々は没後,清涼殿に,しかも雨乞いの相談の集まりのさなかに雷雨が直撃し,死傷者が出て「菅原道真の祟りだ」と,つまり「雷様になられた」ということで「天の神=天神」だそうで。