※このブログに書いていることは、私の関わりある法人の意見ではなく、
 あくまでも、私個人の意見です。

2014年10月20日

「禁欲のヨーロッパ ー修道院の起源ー」



「禁欲のヨーロッパ ー修道院の起源ー」
佐藤彰一著

 著者は、修道院の起源をその心性面から解き明かそうとする。しかしそれ以外にも資料にあたり、いろいろな面から調べてはる。

「健全な精神は健全なる肉体に宿る」は西洋1世紀末から2世紀はじめに生きたローマの風刺詩人ユウェナリスの詩句の一節として伝えられる。その淵源はギリシャのポリス(都市)。ポリスの危急存亡のさい、一命を投げ打って戦場に赴く義務を負った市民が体を鍛えることを奨励していた。ポリス社会の誕生とともにファランクス(重装歩兵の密集戦術)が生まれた。
 ローマ時代にも、その身体の訓練の意義は忘れられても克己的な養生法として続いていた。(って、ローマも重装歩兵による密集戦法を使ってなかったっけ?日本では、豊臣秀吉が「短い槍が有利か長い槍が有利か」という論争が起きたさい、長い槍で密集で戦う方が有利なことを証明した、みたいな話をどこかで読んだけど、ギリシャのポリス社会からすれば2000年も後の話なんだな・・・)

 語句のおさらい

司祭 キリスト教における位階の一つ。
   東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会に存在する。
   プロテスタントには、万人祭司の教理を以て司祭がおらず、
   指導者として牧師が居る。

教派・組織   正教会 
      カトリック教会 聖公会 プロテスタント
   呼称   神父    先生  先生
   職名   司祭    司祭  牧師


司教(しきょう、英語: bishop)は、カトリック教会の位階の一つ。
   ある司教区(教区)を監督する聖務職のこと。
   正教会や聖公会などではこれに相当するのは「主教」と呼び、
   ルーテル教会やメソジストでは「監督」と呼ぶ。
   なお、カトリック教会でも中国語・韓国語では訳語に「主教」
   を採用している(例:天主教台湾地区主教団)。

主教(しゅきょう、英語: Bishop)とは、正教会、聖公会における
   高位聖職者。複数教会によって構成される教区を管轄する。
   カトリック教会では司教と呼ばれる。

修道士 
   「monachus(モナクス)」禁欲修道士。
    もともと「一人で生きる者」というほどの意味。

教父
   古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家
   のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送った
   と歴史の中で認められてきた人々をいう。
   (ということは組織の中の役職名・上下関係ではないわけや)

修道院
  「モナステリウム(monasuterium)」禁欲修道院。そこの集団が「モナクス(monachus)」
  「バシリカ(basilica)」都市型修道院。そこの集団が「フラテール(frater)(兄弟)」
    サン・マルタン。サン・ジェルマン・デ・プレ。サン・ドニ。これらは「バシリカ」

 3世紀末から4世紀はじめに、すなわちキリスト教が公認される直前から直後の時代に、エジプトの村々や都市から、また小アジアやシリアの裕福な家庭から、そして帝国ローマの最上層の貴族たちの館から、若者を中心に幾千にものぼる人々が、自らの欲望の克服と根絶を実現するためにエジプトやトルコの荒野に旅だった。
 男の場合、ギリシャでは広く男色が行われていたから、女性を遠ざけるだけでは足りなかった。
(しかし、結構異性愛も少年愛もあったことが後ろで語られている)

(これは修道院ではなかったと思うけど、養生法として「接して漏らさず」はその時代のローマの健康法としてあった。貝原益軒の養生訓とかも、それこそシルクロードを通じて伝わって来たのか??それとも人間、考えることは同じようなこと、ということか?)

結婚について

 古代ギリシア女性は決められた婚姻を拒否する権利が無かった。それに対し帝政期ローマでは当事者両者の合意が必要とされた。一見ローマの方が女性の権利がありそうであるが、実はローマ時代、結婚できる年齢を、女性は12歳としており、それではまともに判断できひんでえ、という話。

 ローマ帝国では結婚を管理(と言っても、なんというかローマ市民というか、一定の階層以上ではあるだろうけど)しようとしていた。そこで独身者は死んだら全財産が国庫に没収。子の無い夫婦は片方が死んだら、1/2が国庫に没収。また堕胎は一人目は許されていなかった。(しかし、生後すぐに殺されることはよくあったよう。ユリアヌスの子どももへその緒を必要以上に短く切って殺されている。こういう権力争い以外にも障害のある子どもを殺すのにも使われただろう)

「ユリウス法」と「パピウス法」は別の時期の法律だが、内容が共通する点が多いので「ユリウス・パピウス法」と呼ばれている。
 その中で、当時のローマの適齢期の男子が、「正式の結婚」をせず、ローマで身分的に劣位にある女性や、ペリグリーヌス(外国人)として国法上位置づけられている高貴な血統の女性と内縁関係を結んで同棲生活をすることが増えてきたが、そうすると、「遺産相続の放棄」「子どものいる親族に自分の財産の1/2がいく」などということに。
 また内縁関係の子には相続権は認められなかった。
 正式な結婚では1人目は堕胎が許されなかったが、2人目以降は法に抜け穴があって堕胎が横行した。
 またセックスは子をなすためのものであり一発必中(本にはそう書いてはない)が奨励された。
 結果、少女婚によるセックス嫌悪、出産による身体の不具合、堕胎の横行etc.でローマ貴族の出生率はどんどん下がった。

 で、どっちみち禁欲生活を強いられるなら、キリスト教に改宗した方がいいということで、ローマでは女性から先にキリスト教に改宗する人が多かった。(ってか男は世俗的だった、という言い方もできるかも)


修道生活の始まり

 上記のような、特に女性にとっては強いられた禁欲生活、男性にとっては健康法としての禁欲生活(って、これは上流階級とか市民階級とかにとってのみだろうけど。でないと、だいたい、当時の人が「飽食」できただろうか?性の方はわかんないけど)が修道院への動機づけとなる。
(飽食して動いていない人には、粗食で動いて過ごすことは「気持ちいい」と感じて当然じゃないかな)

3世紀初頭 テルトゥリアヌス 「処女のヴェールについて」
        (ヴェールはイスラム教徒ばかりじゃないんだな・・・)
      キプリアヌス 「処女の衣服について」(アフリカ)
3世紀   シリアで書かれた2通の書簡 個人の邸宅で男女が一緒になって
         共同生活を送りつつ純潔を守る試みについて書かれている
4世紀後半 アンティオキアの教父ヨアンネス・クリュソストモス
        (女性と一緒に住んでいるが、家事一切や足洗いなど全部
         やってもらってる・・・)
7世紀   アイルランドの聖コロンバス(改革運動をした)
         男子修道院と女子修道院が対に建つ
         (で女性が男性の世話をする!!)

アントニオス
   もともとエジプト人の浮遊な農家の子。
   270年頃、自分の性的欲求を克服するため、自分の財産を全部貧者
   に分かち与え、隠者の道を選ぶ。
   そして砂漠の周縁にある荒地に向かう。
   (この周縁ってのが大事らしい。まったく人里から離れているわけではない。

   「アントニオス伝」に詳しいが、これはアレクサンドリア主教アタナシオス
    が書いたもの。この人は45年の主教在任中5度にわたってその職を追われ、
    17年間亡命していた人。(アリウス派との闘いによる)

   この後頃から、エジプトの都市や村々で禁欲生活に入る者が増えて行き、
   そういう人がいるのが当たり前になっていく。
   (で、ここで大事だと思うのは、ローマの貴族にとっては質素な生活だ
    としても、当時のエジプトの農民にとっては当たり前の生活であった、
    という記述が後で出てくる。そうだろうなあ・・・食ってけるから人
    が集まる、という面が、大きくなる組織には必ずあると思うから)

   そして砂漠の入り口(都市からすれば周縁部)に共住する修道院は都市の
   人から見て「砂漠を都市に変えた」ように見えた。

   で、禁欲生活を送っているけれど、修道士たちの記録に、周辺の村へ行って
   娘を妊娠させたり、周辺の村から来た娘としちゃったり、という例はたくさん
   出て来る。少年とも。でも、それで破門になるとか、強制退去とかいうことは
   無かった。報告すれば諭されはするけれど。

ヨアンネス・クリュソストモス
  アンティオキア(シリアの北方。現在はトルコに属する)の恵まれた地位にあった都市役人の子。
  370年頃、この都市を見下ろすシルピオス山の洞窟で禁欲修行を実践
  している修道士に惹かれて山に登る。
  2年間の断食修行を行って、厳しい生活で胃腸が常時損なわれるようになり、
  また冬の寒さにほとんど死にぞこない、山を降りる。
  (若い時の自分探しって、今も昔も変わらないのね・・・)
  381年助祭に任命される。
  386年司祭に任命される。
  この後12年間、アンティオキアの教会は弁論のさえるヨアンネスの力で
  名前が鳴り響く。(プレゼンがうまかったのね)「黄金の口」と呼ばれる。
  で、都市のために結婚し子どもを作るのではなく、それぞれの肉体を
  コントロールするために結婚する。そして都市が人で一杯にならない
  ように同性愛こそが性愛の最終的に洗練された形である、と説く。
  著書「修道生活中傷者駁論」の中で、10歳あるいはもっと早いくらい
  の少年が教育のために修道士に託されるが、こうした少年たちは多くが
  年長者らによって犯されると、ヨアンネスは語っている。



 ふ〜〜、これ以後は後で、できたら・・・


 こんな映画が、今まさに上映されてる。
 わお〜〜ん、退院と終わるのとがほぼ同時。
 見に行けるかなあ・・・

posted by kingstone at 20:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・記事・番組など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 ユウェナリスの元の意味は,多くの人が「贅沢」を願うのに対して,「願っていいことがあるのだとしたら健全な精神と健全な肉体くらいのものだ」というものだったようです。それ以前にも「健全な精神は健全な肉体に宿る」的なことわざがあったようですが,それは現実として全然健全じゃない肉体の人が多すぎたからこういう警句を述べたという説と筋肉バカが増えすぎて「肉体くらい精神も研ぎ澄まされていればいいのに」という反語だったという説もあります。
Posted by もずらいと at 2014年10月20日 20:23
もずらいとさん、どうもです。

>ユウェナリスの元の意味は

これは本当でしょうね。
だいたい肩書が「風刺詩人」なんだし・・・
まともに「それらしい」ことを言ってるとは思えない・・・
また、何か「こうしようよ」という文が残ってる場合、実態はそうでないことが多い、ってのも本当だろうし。
聖徳太子の「和をもって貴しとなす」というのは、豪族同士がシッチャカメッチャカの闘い、足の引っ張り合いをやってたからでしょうしね。
Posted by kingstone at 2014年10月20日 20:38
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